−−西暦1995年8月、野比家自宅・2F。
微睡みの中から浮かび上がる意識。我ながら自分の昼寝技術は流石と言える。ピッタリ一時間半での起床。
しかし何故、これは通常睡眠に生かされず寝坊を多発させるのか甚だ疑問だ。うーん、と伸びをしてのび太は身を起こした。
部屋の中に、自分以外の住人はいない。押し入れにも気配はない。ドラえもんはまだ帰ってきてないらしい。
−−宿題…やりたくないなぁ。
机の上のランドセルを見、憂鬱な気分になる。夏休み最大の敵は、まだランドセルの中に封印されたままなのだ。
せめて絵日記だけはサボらないようにしよう、と毎年思うも大抵三日坊主で終わる。今回も例に漏れない。
今ならまだ書く量は半分で済むが−−残念ながらやる気が全く起きなかった。
母に逢えば開口一番で宿題の話をされるだろう。実に気が重い。
しかし、旅行から帰ってきた以上“ただいま”の一言くらい言うのが礼儀だ。
というか言わないとまた雷が落ちる。機嫌を損ねる事は出来うる限り避けたいものだ。
−−やだなぁ、もう。宿題なんて滅べばいいのに。
ため息を一つ吐いて立ち上がる。大体、自由研究とか読書感想文なんてものが将来なんの役に立つのだ。
自分は別に研究者になるつもりもなければ、どこぞの編集部で働く予定もない。人間誰でも得手不得手がある。
勉強なんか勉強が得意な奴にだけやらせればそれでいいではないか。
襖を開け、廊下に出る。途端、のび太は顔をしかめた。何だろう。異臭がするような。
−−何だ…この、魚が腐ったみたいな匂いは…。
階下からなのは間違いない。母がうっかり、腐らせてしまった鰺でも捨てたのだろうか。鼻をつまみながら階段を降りていく。
一階の廊下に出た。狭い一軒家の板張りの廊下は、昼間だというのにやけに暗いような気がする。
窓が開いているのか、ひんやりとした風がどこからか吹き込んでくる。
「え!?」
玄関を見て、目を見開いた。我が家の固定電話は玄関に置いてあるのだが−−その受話器が、なくなっている。
いや、なくなっているだけではない。
コードが千切れて垂れている。まるで誰かが無理やり受話器だけ引きちぎってしまったかのよう。
その上、ボタンの上には何やら白っぽい−−ネバネバしたものがついている。
「誰が、こんなこと…」
のび太の胸に、暗い靄のようなものが立ち込めていく。
じわり。じわり。それは不安か、悪寒か−−あるいは“嫌な予感”という奴なのか。
何にせよ受話器が壊されている事を母に報告しなくてはならない。廊下の板が、今日はやけにギシギシと軋む。
トイレの前に来た時、酷い悪臭がさらに悪化した。もしや臭い元はここからか。恐る恐るドアを開けて、吐きそうになった。
「うぐっ…!」
便器が凄まじい有様になっている。
血なのか、肉なのか、ゲロなのか排泄物なのか−−よく分からないものがドロドロになって混ざり合い、便座から溢れんばかりになっていた。
何日流してなければこんな事になるのだろう。
何でこんな状態で放り出してあるのか。綺麗好きの母からは考えられない。
見つけた以上、自分がレバーを引いて流すべきなのかもしれないが−−とにかく臭いが酷くて、個室に足を踏み入れるのも嫌だった。
何より、万が一流して流れなかったら。このドロドロが逆流してきたら。想像するだけで戻してしまいそうだ。
−−ま、ママに…知らせなきゃ。
口元を抑えながら、台所へ向かう。のび太がもう少し聡明な子供であったなら、この時点でもう少し危機感を持っていい筈だった。
一階は悪臭が蔓延している。母が無事で在宅していたら、必ずや何らかのアクションを起こしている筈だと。
キッチンまであと一歩というところで−−のび太は足を止めた。聴覚が奇妙な音を拾った為だ。
ぐちゃり。くしゃり。くちゅり。
−−……?
ごきり。ぽきり。くちゃり。
湿った音と、堅い何かを噛み砕くような音が混じり合って響いてくる。
不規則に、まるで何かを食べているかのような音。
しかも、何だかトイレの中からしたのと同じ腐臭が−−キッチンからも漂ってきている気がするのは、気のせいだろうか。
「ま…ママ?いるの…?」
確かめなければ、ならない。そんな使命感と、見てはならない、と本能が鳴らす警鐘がせめぎ合う。
のび太はごくりと唾を飲み込み、勇気を出してキッチンを覗き込んだ。
電気がついていない台所は薄暗く、ぬめっとした空気が重く沈んでいく。
テーブルの陰で、何かが動いているのが見えた。短い黒髪。ピンク色のスカート。白いエプロン。
母の後ろ姿だと分かった。彼女はこちらに背を向けて座り込んでいる。
「ママ…?一体、なにして…」
言葉は、中途半端に途切れた。びしゃりっ、と何かが大きく飛沫を上げ、壁に飛び散った。
床に赤黒い池ができている。それが血だと、理解するまでしばし時間を要した。
母は、のび太の声に答えない。代わりに、やけに緩慢な動作で立ち上がり−−振り向いた。
ひっ、と。喉が短い悲鳴を絞る。あまりに非現実的な光景が目の前にあって、悲鳴さえも出遅れた感じだ。
脳味噌が事態を把握した直後、それは絶叫へと変わった。
「う…うわあああああああああっ!」
振り向いた野比玉子の顔は、血だらけだった。
それだけなら自分は純粋に母を心配して終わっただろう。しかし、それは母だけの血ではなかった。
割れた眼鏡の奥から除く双眸は、既にこの世を見てはいない。
右目はぐるんと裏返り、白目を向いている。左目は濁り、眼球からだらだらと血を流している。
唇は大きく裂けていた。いや、もう唇と呼べるものが顔に残っているのかどうか。
顎あたりまで皮膚はまくれあがり、剥き出しになった歯茎は肉片と血にまみれていた。
美しかった母は見る影もない。その姿はまるで−−以前一度だけ見たホラー映画の中の−−ゾンビ、そのものだ。
そしてのび太が悲鳴をあげた理由は、それだけでは無かった。
「ママ…パパぁっ!何で…何でぇっ!?」
母の足元には、胴体と首が離れ離れになって転がっていた。
その服が父のものでなければ。
転がっていた生首が完全に食い散らかされていたなら−−どんなに良かったことだろう。
顔の肉の半分は消失し、骨まで噛み砕かれていたが。それでも、分かってしまった。死んでいるのは優しかったあの父だと。
そして。母はさっきまで父の遺体を食らっていたという事が。
−−これ…何?僕はまだ夢を見てるのか?
かつん、と何かが足元に当たった。見ればそれは、見慣れたデザインの受話器。
受話器には血と、あの白いべたべたが大量に付着している。ここにきて理解した。
この白いモノは−−膿だ。誰かが血だらけ膿だらけの手で受話器を引きちぎり、キッチンまで持ってきたのだ。
母に襲われた父が助けを求めようとして、慌てて受話器を引きちぎったのか?あるいは、母が?
「ノ、び…ちゃ…」
母の声に、我に返った。化け物の姿でも、喉が潰れていても−−そこには母の、面影があった。
けれど。
「ごぎゃあああああっ!」
形容し難い声を上げ、母は歯を剥き出しにして襲いかかってきた。
「ひいいいっ!」
腰を抜かしたのが幸いしたのか。母の手は宙を掻く。
動いた彼女の腕から、肉がずるりと落ちた。上腕は骨が露出している。その光景を見、胃液が喉の奥までこみげた。
「ぐ…うぅ…っ」
吐いている場合じゃない。なんとか吐き気をやり過ごし、ガクガク震える膝を叱咤して立ち上がる。
テーブルの上に、まな板と一緒に置かれた包丁が見えた。とっさにのび太はその二つを手にとっていた。
ごはぁっ、と腐った胃液を吐き散らしながら、母の姿をしたゾンビがさらに襲ってくる。
噛みつこうとしている。そう気付き、背筋が冷たくなった。
捕まったら終わりだ。自分も父のように−−生きたまま食い荒らされてしまう。
きっと凄く痛い。凄く怖い。そんな死に方−−絶対に嫌だ。
「嫌だああああっ!」
のび太はまな板をゾンビの顔面に投げつけていた。ゾンビは怯み、仰け反る。
なりふり構ってなどいられない。のび太は狂ったように叫びながら、包丁を突き出していた。
鈍い手応え。刃物が母の裏返った右目に食い込んだ。眼球を貫き、眼底まで深く突き刺さる。
すぐさま刃を抜き、今度は左目のある場所を狙った。それを繰り返し、何度も何度も。
ぐさり。
ぐしゃり。
ぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさりぐしゃりぐさり。
もはや母の顔は、顔ではなくなっていた。
両目を交互に刃物で耕され、恐らく脳味噌まで破壊されたのだろう。
やがてゾンビの全身から力が抜け、両手がだらりと垂れ下がった。
のび太が包丁を抜く。母の身体はどう、と横倒しに倒れた。父の遺体の上に、覆い被さるようにして。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
荒い息を吐いたまま、床に座り込む。包丁を持った両手が、熱い。なのに興奮と錯乱から醒めた頭は急速に冷えていく。
「ま…ママ……」
生臭いキッチンに静寂が広がる。顔の潰れた母はもう、ピクリとも動かない。父に至ってはその望みがあろう筈もない。
ただ恐怖と、死にたくないという感情だけでいっぱいいっぱいだった−−つい先程までは。だが頭が冷えるにつれ、現実を思い知る。
両親が死んでいること。うち片方を今−−明らかな殺意を持って、自分が刺したということ。
「ママ…?嘘だよね?」
ひとを、ころした。
じぶんが、ひとを。
「本当のママは何処かにいるんだよね?返事をしてよ!ママ!!」
生まれて初めて殺した対象は、生みの母。世界で一番怖かったけど、一番大好きだった−−家族。
受け入れろよ、と頭の隅で理性が言った。現実を受け入れろ。目を逸らすな。お前が母親を見間違える筈がない。
母親は化け物になって自分を殺そうとした。自分はそれを返り討ちにした。悪夢のような−−それが、現実だと。
「どうして…」
涙が溢れる。どうしてこんな事になってしまったのか。訳が分からず、のび太は嗚咽した。
まず血だらけの手を洗わなければ。こんな場所に一秒たりともいたくない。
それが分かっているのに、身体が動いてくれない。ただ頭が痛くて、目がヒリヒリして、痛い。吐き気も収まってはくれない。
自分が不在だった三日間。その三日のうちに、何があったというのだろう。これが誰かの意志ならば、なんて酷いシナリオだ。
のび太の知らない間に、運命は動き出してしまっていた。
転がりだした石は止まらない。坂が続く限り、身を削りながら落ちていくだけ。いつか粉々に、砕け散るまで。
第三話
母
〜既に時は遅く〜
世界の果てで何処までも。