−−西暦1995年8月、学校・校舎裏。
胸の奥から湧き上がる、黒い靄。その正体が未だに掴めない。
安雄が死んでしまった。
確かに彼はウイルスに侵されていたかもしれないが、自分達はその心に気付く事が出来なかった。
悲しみと焦りがせめぎ合う。多分それは安雄の死だけが理由ではない。
静香に出来るのはただ、皆に置いてかれぬよう歩き続ける事だけだった。
自分は、無力だ。安雄を迎えに行った時だって、ヒロトが一緒だったから辿り着けたようなものである。
一人きりだったら、きっと駄目だった。
女の子だからって甘えるな。ヒロトはそう言っていたが、実際のところ凄く優しい。
得体の知れない人物なのは確かだがそれだけは間違いない。
あの時、自分は彼に守られていた。ゾンビが迫ってきても、静香が倒したのは数えるほどしかない。
−−あたし一人だけ…何の役にも立ててない。
焦燥。誰も失いたくと思うのに、自分の力では現実を止められないのではという恐怖。
その為のまじない。しかしいくら言葉で強気な事を言っても、行動が伴わなければ何の意味もない。
−−あたしだけが…足手纏いだ。
今まで、どうしてそれで平気だったのか。のび太達とこなした数々の冒険で。
自分が敵に捕まったりピンチになったりして皆の助けを求めた事が、一体何度あっただろう。
何度皆に迷惑をかけただろう。にも関わらず、自分が皆を助けられた事は何度あっただろうか。回数は−−悲しいほど比較になるまい。
それでもいいじゃない。女の子なんだから。無意識のうちにそう思っていた自分が本当に情けない。
甘えていたばかりか、自覚さえ無かっただなんて。
それじゃあいけないと、のび太が一人で太郎を守った時誓った筈だ。
なのに、あの後から自分は何か変わっただろうか?答えは否、だ。結局誰かの足を引っ張りながら今に至っている。
もし。自分にもう少し力と勇気があったら。安雄に言えたかもしれない−−必ず抗ウイルス剤を見つけるから、それまで諦めない、と。
力と、それに裏打ちされた自信があれば言えた筈だった。
しかし、静香にはただ、彼に気休めの言葉をかけるしか出来なかった。自信も、根性も無かったから。
抗ウイルス剤が見つかれば、きっと助かる。それは事実だった。
しかし、静香は“自分が見つける”ではなく“見つかる”と言ったのだ。
心のどこかで、仲間達の力をアテにしていたから。
自分が見つけるんだと思うことが出来なかったから。
ふざけてるのか。仮にそう言われても仕方なかったたろう。
−−変わらなくちゃ。あたしは…どこかのお姫様なんかじゃないんだから。
小さな頃から夢に見ていた。綺麗なお城で、好きなだけ綺麗なお風呂に入って、美味しいご馳走が食べ放題で。
そんな場所で綺麗なドレスで着飾り、格好いい王子様と勇敢な騎士達に囲まれて。
箱入りの、幸せな幸せなお姫様。憧れだった。
いつか白馬の王子様が迎えに来てくれて、自分を守ってくれて−−お姫様になれると。そう信じていた時期も、あったのだ。
今だってそんな夢は見る。けれどもう、妄想と現実の区別がつかなくなるほど子供じゃない。
自分はお姫様じゃない。仮に自分を守ってくれる人が現れても、その人は王子でもなければ騎士でもないのだ。
無条件で守られていい筈がない。生身の人間は、いつか必ず死ぬのだから。
−−自分の身だけでも守れるようにならなきゃ。此処にいる資格なんて、ない。
皆は覚悟を決めて前に進んでいるのに、静香一人でも弱いままでいたら。
きっと今より悲しい事が起きる。新たな犠牲が出てしまう。それだけは避けなければならない。
家族とも離れ離れになり、父母の生死さえ確認出来ず−−それでもまだ折れずにいられたのは、皆に出逢えたからだ。
武は乱暴者だが、ここ一番で本当に頼れる。皆を誰より守り、誰より先に敵陣へ切り込む特攻番長だ。
スネ夫は普段は口先三寸でイヤミだけれど、そのパソコンの知識がなければ自分達は前に進め無かった。本当に助けられている。
ヒロトは時々怖い事を平気で言うし、正体不明の人物ではあるが。非常に気が利くし、戦い慣れている。冷静な判断力も有り難い。
同じく綱海も謎な人物だが。ムードメーカーなところがあり、何より戦力として申し分ない存在である。
健治は見た目は不良ちっくだし無愛想に見えるけれど、あんなに優しい人はいまい。彼の一言一言が、皆の心を陰で支えているのは確かだろう。
太郎はまだ幼くて非力。しかし庇護すべき彼がいることで自分達は奮い立たされる。こんな状況でも泣いて喚いたりしない、強い子だ。
聖奈は一見大和撫子な大人しいお姉さんに見える。しかし彼女もまた現実をちゃんと受け止めて立っている。芯の強い女性だ。
金田は普段偉そうで態度も大きいが、その知識は大いに役立つ。医者としての力量も、非常に有り難いところだ。
そして−−のび太は。
−−いつも臆病で、見ててハラハラするくらいなのに…いざって時、誰より勇敢な人。
彼の気弱なところや、臆病なところは、裏を返せば優しさの表れだ。
いくらゾンビになってしまったからといって、かつては人間だった人達を容赦なく銃で撃つなんて−−本当は、絶対に嫌だったに違いない。
それが今出来てしまっているのは、一番最初に大好きだった母を殺さざるをえなかったからなのだろう。
彼は自分に自信が持てないようだけど。静香は知っている。
彼にはたくさん良いところがあって、気付かないうちに彼の言葉や姿に皆が救われていることを。
安雄の事は死なせたくなかったけれど。彼が自らの為に決意を固められたのは、きっとのび太の言葉があったからだ。
自分達には出来なかったことを、のび太はいとも容易くやって見せたのである。
優しいから迷って、優しいから臆病になる。だけど優しいから、いざという時守る為に立ち上がれるのだ。
のび太が頑張るたび、静香は思うのである。自分も一緒に戦いたい、と。そして彼が頑張るたび、自分だってまだまだ頑張れる筈だとそう思うのである。
みんな大切な仲間だけど。どこかでのび太を、皆と違った場所に置いている自分がいるのだ。
のび太はきっと、命懸けで静香を守ってくれる。それが確信に近く分かる。だからこそ。
自分を守る為に彼を死なせてはならない、それだけは絶対に嫌だと−−叫ぶ己がいるのだ。
−−のび太さんを助けられるように…あたしも役に立てるところ、見せなきゃ。
その考えはまだ、エゴの範疇を出ていない。静香はそれに未だ気付いていなかった。
冷静に考えれば疑問視出来たかもしれないが、今はただ焦りが先行してしまっていた。
裏口を抜け、校舎裏に出て裏門の方へ走る。校舎の明かりが無ければ真っ暗だっただろう。
静香、のび太、ヒロト、健治、太郎の五人は校舎沿いにやや遠回りする羽目となった。真ん中を突っ切るのはギャンブルすぎる。
『…裏山の旅館が、アンブレラにとってかなり重要な施設だったのは間違いないね。モニターのいくつかが裏山の様子を映してる』
インカムからスネ夫の声が入った。
『しかも…超高性能な暗視カメラだよこれ。ハイテクすぎる。いくらアンブレラが巨大企業だからって、これはレベル高すぎでしょ』
暗視カメラ−−暗い場所でも様子を捉えることのできるカメラだ。
そんなものが裏山に設置されてただなんて全く気付かなかった。
幼い頃から慣れ親しんできた山が、今はどこかよそよそしいものに思えてしまう。
「そういや…薬や通信機のラベルの製造年月日がおかしいって、金田のオッサンが言ってたな。それと何か関係あんのか?」
「…カメラも…未来から持ち込まれた可能性があるってこと?」
「さぁな。…俺は未だに、タイムマシンやら未来ロボットやらの話を信じきれてないしな」
健治は肩を竦める。そうだ。通信機にった2010年という文字の意味。
あの時は話題自体が流れてしまったけれど、結局解決されていないのである。
もしラベルにあった文字がもっと先のものだったら、話は簡単だったのだ。
タイムパトロールが何故見過ごしたかという疑問は残るものの、22世紀以降の時代にタイムマシンがあるのは確かである。
この事件そのものが未来人の時間犯罪だったのではないかという仮定が成り立つ。
しかし2010年なんて半端な未来に、タイムマシンの技術が確立する可能性はかなり低いように思われた。
22世紀以降の人間が2010年に寄り道してその時代のブツをこの1995年に持ち込んだなら筋は通るが、やってる事が流石に回りくどすぎる。
22世紀のカメラや薬を直接持ち込めばそれで済むではないか。
そういえば、ヒロトはあの時“異世界人では”と口走った。あれはどういう意味だろう。
何か自分達の知らない事を知ってて、隠してるんだろうか。
『裏山の中はケルベロスだらけだよ。これはやっぱり、エレベーターを使わず山の中を突っ切るって選択はなさそうだね。夜目のきかない人間じゃあまりに不利だ』
ケルベロス、というのは例のゾンビ犬のことである。
資料にざっくりとだがデータがあった。やはり元はドーベルマンだったようだ。
優秀な警察犬を買い取って、あんな酷い姿にしてしまうなんて。動物が大好きな静香にとっては、到底許せる事ではなかった。
人間にしたってそう。動物にしたってそう。奇麗事なのは分かっているが、本来命の領域は他者が侵していいものではない。
生きる為ではなく、争いの道具や金儲けの為に、心を弄び命を踏みにじるなんて。悪魔の所行としか言いようがない。
『うおー、確かに犬コロだらけじゃねぇか!俺様なら全部なぎ倒せるのによー!』
『もージャイアン大人しくしててよ!くじ引きで決まったことなんだから仕方ないじゃんか!』
武はまだ文句を言い続けてるらしい。スネ夫はいい加減うんざりしているようだ。
「喧嘩してる場合じゃないよ二人とも!…スネ夫…まだ出来杉とはる夫は見つからないの?」
のび太が呆れた声で尋ねた。安雄は出来杉とはる夫と行動していてはぐれたと言っていた。
彼らが生きているなら、モニターのどこかに映りそうなものなのだが。
『残念だけど…まだ。それにカメラも一部破損してるらしくて、映らない箇所もあるんだ。そこは綱海さんに逐一確認して貰うことにするよ』
「分かった。気をつけてね綱海さん」
『おう!任せとけよ!』
インカムごしに綱海の声。なかなか頼もしい限りである。
彼が一人で学校探索担当になってしまったのは不安だが、綱海ならまあそう簡単にやられる事もないだろう。下手な無茶もしない筈だ、多分。
「さて。もうすぐ裏門だけど」
すっと。ヒロトが目を細めて、向かう先を見つめた。静香ははっとして顔を上げる。
「俺達のファンが出待ちしてくれてたみたいだね」
「…可愛い女の子、いるかな?」
「もう、のび太さんってば」
「本人達に訊いてみればいいんじゃない?」
ひきつった声でのび太が珍しいジョークを言う。
仕方ない。ファンサービスといきますか。
第三十一話
焦燥
〜踊らぬティンカーベル〜
永劫もまた彼方。