−−西暦1995年8月、廃旅館前。
エレベーターや地下通路に化け物がいなかったのは幸いだった。エレベーターホールの仕組みのせいだろう。
鍵こそかかっていなかったが、開けるには若干面倒なハンドルの回し方をしなければならない。ゾンビ共にそれだけの知恵はなかったということだろう。
朽ちた門。雑草生えだらけの庭。割れた窓ガラスにひび割れた壁。廃旅館を見上げ、のび太は思う。
何だか、建物全体に歓迎されていない気がする−−と。
重い威圧感が、旅館そのものが意志を持つかのように吹き出している。時折聴こえる烏の鳴き声や犬の遠吠えがより臨場感を煽った。
ネズミーランドのお化け屋敷でさえ逃げ出したいのび太である。
リアル・ホラーテッドマンションに身震いした。こんな事でもなければ絶対近寄らなかっただろう。
「おいでませ、黄泉の入口へ」
ヒロトがさらりと怖い事を言う。意味をなんとなく察してか、やめてよう、と太郎が情けない声を上げた。
「ごめんごめん。…でも希望への入口かもしれないんだから、我慢してね」
「地下研究所への入口が、こっから繋がってる可能性もあるしな。単なる飼育所でも、手がかりは山のようにある筈だ」
健治が建物を睨む。イエス、と答えるかのように木々がざわめいた。
風が吹くのは災いを予見するからか。既に山ほど悪いことは起きてしまってるわけだけど。
のび太はあたりを見回しながら、恐る恐る入口に近付く。そして。
「ぎゃあっ!」
思わず、情けない悲鳴を上げてしまった。尻餅をついたままガクブルである。
なんと廃旅館の電気が、のび太が近付いた途端ついたのだ。
「ゾンビはだいぶ慣れたくせに、電気ついたくらいでビビんのかよ」
「う、うるさくてやかましいです文句上等でございますですよ健治さ…」
「…とりあえず落ち着こうか。日本語が破綻してるぞ」
ゾンビだって本当は怖いけど、あまりに人外な姿がかえって現実感をなくしつつある。
だがこういったありがちイベントは違うのだ。逆に得体が知れなくて、怖い。
ゾンビは実体があるけど、幽霊にはないのだ。拳銃では戦える気がしない。
ヒロトがつかつか歩いていって、扉の付近を調べている。側のゴミ箱を覗いたり、玄関ポーチを見上げたり。
「…ここにも監視カメラはあるけど…電気の自動点灯センサーっぽいのはないね」
その目は心なしか厳しい。彼は少し考えこんで、続けた。
「そもそも俺達が来たのに反応して“中の”電気をつけるのも変な話だし。
…町の外が無事なら、まだ電気が通っててもおかしくはないけど…。やっぱり変だ。ゾンビに電気をつけるような知恵はない」
「自動点灯じゃないなら…中に人間がいるかもしれないってこと?」
「魔女かもしれないけどね」
言葉だけを見ればまるで冗談のようだが。ヒロトと眼はまったく笑っていない。
さっきの言動といい、彼は本物の魔女が実在するとでも思っているのだろうか。
少々意外だ。てっきり彼のようなタイプは、ファンタジーに抵抗がありそうなものなのに。
「やっぱりあたし達…誰かに誘導されてるのかしら」
静香が眉をひそめて言う。
「理科室に都合よく入っていた日記だけじゃないわ。偶々見つけた音楽室の金庫に、理科室の鍵だけポツンと入ってたのも不自然だし。
そもそも何故給食室に裏門の鍵が落ちてたの?」
まったくもってその通りだ。この廃旅館に辿り着くまでのルートに不自然な箇所が多すぎる。誰かが自分達を誘い込もうとしてるように見えなくもない。
その誰かが。今この旅館に潜んでいて、電気をつけたのだろうか。カメラから、あるいは窓から。自分達の姿を見ていたのだろうか。
それは魔女?人間?それとも−−もっと恐ろしい、“ナニカ”?
「スネ夫の言ってた仮面の男の子…なのかな?でもそもそもその子って本当に敵なのかな」
「どうしてそう思うの、のび太さん」
「だってさ。スネ夫を撃たなかったんでしょ?スネ夫は反抗して怒鳴ったのにさ」
『…僕もそう思うよ』
インカムのスイッチが入った。スネ夫が言う。
『…実は、放送室で新しく見つけたものがあってさ。彼の日記じゃないかと思ってる。詳しくはあとで話すけど…』
スネ夫は、見つけた日記について話してくれた。意味不明でありながら、想いを投げつけるかのように綴られた日記。
ページがあちこち破られてしまっていた上、固有名詞が殆ど登場しなかったが−−何か強い目的と、守りたいものがあって戦ってるのは見てとれたという。
「彼と彼女と君…か。これがキーワードっぽいよね」
『うん。でもってこの日記の主は、その全てに先立たれてるっぽいんだけど…でも“君を取り戻す”っていうのが何なのかサッパリで。
それに“偽物の君を作る”とか“偽物の彼を傍に置く”ってのも何が何だか』
偽物−−その時ふと、ある可能性がのび太の脳をよぎった。
いや、そんな馬鹿な。
そんなことがこの時代で出来る訳がないし、22世紀の人間ならわざわざこの時代に来る意味もない。のび太は頭を振って想像を振り払った。
『まあこの日記が…仮面野郎のとは限らないけどよ』
スネ夫の傍にいるであろう武が話す。
『…やっぱり、根っから悪い奴とも思えないんだよな。少なくともアンブレラの人間じゃなさそうだしよ』
それはほぼ間違いないことだろう。
ただアンブレラの人間であることを否定したならともかく、アンブレラという単語に嫌悪感を示している様子だったというからには。
あの段階で、あの仮面少年が“自分はアンブレラではない”ことをスネ夫にアピールする意味はない気がする。
そもそもどうにも彼は、自分達の眼から隠れて動き回ろうとしてるように見えるし。
「そっちはずっと、校内や旅館の様子をモニターしてくれてるんだよね?あれから仮面の人がどこに行ったか分かる?」
『それなんだけどさ』
スネ夫の声に苦いものが混じる。
『録画した映像で…あの仮面の奴が僕の前に現れて逃げた時だけ、映像が残ってたんだ。でも、カメラの死角に入ったら、そこから先全然映らなくて…』
「…どういうこと?」
『僕に訊くなよ。まるでカメラの死角に入ってから一歩も動いてないみたいに、姿がまったく見えないんだ。
そうでないなら窓もない更衣室で、突然煙のように消えてしまったことになる』
そんな馬鹿な。のび太は唖然とした。人が煙のように消えるなんてそんな−−。
−−まるで、ドラえもんの“いしころぼうし”でも使ったみたいな…。
慌てて考えを振り払う。まだ自分はドラえもんに疑いを抱いているのか。
ドラえもんがいるなら真っ先に自分達を助けにきてくれる筈だし、いしころぼうしだって22世紀の人間なら簡単に入手できる。
仮に少年が未来人なら、持っていてもおかしくないではないか。
『それから…出来杉とはる夫も探してるんだけど、見当たらないんだ。学校にはもういないのかも…あるいは』
スネ夫はそこで一旦言葉を切った。
『あるいは…彼らも、旅館のその先にいるのかもしれない。出来杉君なら、辿り着けてもおかしくないよ』
確かに、出来杉なら。彼の博識ぶりと頭の回転の早さは小学生の域ではないのだから。そこまで考えて、のび太ははっとした。そういえば。
「ねぇスネ夫…理科室にもカメラはあるんだよね?僕がバイオゲラスと戦った時の映像、見れる?」
アドバイスをくれた、あの声。出来杉に似ていなかったか?
「…近くに出来杉君か…とにかく誰か移ってない?多分男の子なんだけど」
『?……待ってくれ、今再生してみるから』
カチカチと機械を操作する音が聞こえる。しばらくして、スネ夫の返事がきた。
『…うーん……カメラの映す範囲じゃ誰も…。まあ死角がないわけじゃないしなあ。理科室付近のカメラは壊れてるのもあるし』
「そのカメラって音は拾えるの?」
『いいや。そのへんはインカムでカバーしてる。…なんか特殊な仕組みっぽくて、僕が持ってるのが親機な感じなんだよね。
こっちを操作すると、そっちの音は全部聴こえるんだ。全部でそれやるとウルサくてしょうがないから、普段は閉じさせてるんだけど』
「そうなんだ…」
死角から喋っていたのだろうか。しかしそれなら、理科室に入る様子くらい記録に残ってそうなものだが。
「戦ってる最中さ。僕にアドバイスくれた人がいたんだ。
アルコールランプを使うのを思いつけたはその人のアドバイスのおかげで…出来杉の声かと思ったんだけど…」
そこでのび太は、恐ろしい想像に行き着く。
あの理科室はほぼ密室だった。それこそドラえもんのどこでもドアでもない限り脱出できないし、にも関わらず内側から鍵をかけた人間は必ず存在する。
非常にミステリーな状況である。ただし、一つだけこの条件をクリアする方法があるのである。
それは安雄が現れるより前から理科室にいて、自分達が立ち去るまでずっと理科室から出ないことだ。
最初から最後まで理科室にこもっていれば、脱出手段がなくても構わない。
自分達がいなくなった後なら鍵も開いていたし理科室の入口は安雄によって破壊されていたのだから。
今までそれを考えなかったのは、室内にバイオゲラスがいたからに他ならない。
そんな長い時間籠もっていてバイオゲラスの餌にならずに済むのは、ロボットであるドラえもんくらいなものだ。
だが。もしバイオゲラスに襲われずにすむ何らかの手段があるとしたら−−出来杉のような人間の子供にもこの行動は可能になってくる。
『…お前に知らせるか、迷ったんだけどさ』
のび太がさらに詳しく話を訊こうとした時、先にスネ夫が発言していた。口調がやけに重い。
『…お前。先生を見つけたって言ってたよな。一階で』
「!」
まさか。全身から血の気が引いた。インカムの声は今、静香達他のメンバーにも聴こえてる筈だ。同じことを想像したのだろう、静香が息を呑む気配があった。
『……駄目だったよ。僕もリアルタイムで映像は見て無かったけど…もう』
詳細を、訊くまでも無かった。のび太は唇を噛み締める。籠城したって長くは続かない。分かっていたが、まさかこんなに早いだなんて。
『立ち向かわなきゃ、駄目だったんだ。先生も…本当は分かってたんじゃないかな』
「…そうだね」
父。母。安雄。先生。どんどんどんどん、大事だった筈の人達がいなくなっていく。
もう涙は出ないのだろうか。こんなに悲しいのに、瞳はカラカラで痛いほどだ。
「強くなきゃ…また失っちゃうんだ」
はっとして顔を上げるのび太。焦りに満ちた静香の声と、まるでのび太の気持ちを代弁したかのような台詞。一抹の不安が、のび太の胸によぎる。
「静香ちゃん…?」
「大丈夫よ」
静香の眼は、のび太を見ていない。
「大丈夫だから」
一体誰への言葉なのか。のび太には彼女が無理矢理自分に言い聞かせているように見えてならなかった。
大丈夫。そう呟けば本当に大丈夫になる筈と、信じているかのように。
第三十六話
廃旅館
〜黄泉への入口〜
口実はさかしま。