−−西暦1995年8月、廃旅館・1F廊下。

 

 

 恐らく、元々そう値段の高い宿では無かったのだろう。靴を脱ぐタタキは狭く、下駄箱は学校のそれのように鍵のかからないタイプだ。

というかまず、扉がない。ついでに数が少ない。寂れに寂れて潰れてしまったらしい、というのは本当だろう。しかも、相当前にだ。

 静香はその光景でまず気が滅入った。あまりにも不潔だ。埃も蜘蛛の巣もまったく掃除されてない。シャワーでまとめて洗い流したい気分だ−−というかもう自分が風呂に入りたいのが本音だが。

 

「床…なんか腐ってない?」

 

 太郎が恐る恐る足を踏み出す。木張りの廊下はあちこち穴が空いて陥没している。

ネズミはまだいい、百歩譲っていいことにしよう(ドラえもんがいたら断末魔を上げて撃沈しそうだが)。

しかしあの黒くて脂ぎった虫は頂けない。ハッキリ言ってこんな場所に長居するのは御免だった。

 本来ならば靴を脱ぐタイプの宿だったのだろうが、今この場で靴下や素足になる度胸がある人間はいないだろう。

汚いだけでなく危ないのだ。割れた調度品や硝子片も落ちてるし、何より床の木はあちこちささくれている。

「本当にこんな場所に人…いたのかなあ」

「いたんじゃない?」

 ヒロトが指差す先。なにやら埃が薄くなってる箇所がある。よく見ると足跡だ。雪のように埃が積もっていなければ気付くことも無かっただろうが。

 他にも、電気のスイッチあたりが手垢で黒くなっているのが分かる。

どうやらカモフラージュもかねて、アンブレラは旅館の掃除をしなかったらしい。まあ、地下の研究スペースさえ無事ならあとはなんとでもなるのだろう。

「そもそも…最近まで人がいたから電気がつくんでしょ。誰かが電気料金払ってるわけだし」

「そりゃそう、だ!」

 言いながら−−健治が刀を抜いていた。空き部屋から現れたゾンビが首を寸断されて倒れる。あまりに鮮やかな一撃に、静香はあっけにとられた。

 

「ふっ…またツマラヌものを切ってしまった」

 

 そして何やらポーズを決めている。アンタそんなキャラでしたっけ。ってか元ネタが分からないんですけども。

 

「ナルシストはスネ夫で充分間に合ってるよ健治さん。…でも凄いや、もう使いこなしてるんだ」

 

 のび太が感心したように言った。健治の持つ刀は、少し前に綱海が調達したブツである。

それにより健治の戦闘能力が飛躍的に向上したのは言うまでもない。だがどんなに良い武器があっても、使いこなせるか否かはその人次第なのだ。

 自分はどうだろう。宝の持ち腐れ、という言葉がナチュラルに浮かび、静香は俯いた。

一気に気分が暗くなり、焦りが加速する。早く、みんなの役に立たなければ。強い人間だと、そう見せなければ。

 そうでなければみんなも安雄や先生のように−−!

 

「…あたし!」

 

 焦燥が頂点に達した瞬間、静香は声を上げた。思ったより強い声になってしまった。

「その部屋、確認するわ。何か手がかりがあるかもしれないし、危ないからみんなは待っててね!」

「ちょ…静香ちゃん!?

 早口でそう言うと、背中の制止の声も無視して部屋に足を踏み入れた。

それは一種、自己顕示欲に似たものだったのかもしれない。“誰かの役に立ちたい”という善意は、そのまま“誰かに必要とされたい”という欲望に繋がっている。

 一部屋が広い。101号室と書かれたドアの向こうには、朽ちかけた廊下。左にドアがあり、おそらくトイレと風呂に繋がっているのだろう。

通常通りの構造ならば、真正面には居間兼寝室がある筈だ。

 その寝室の方から、のそのそと歩いてくる陰。腹に大穴を空け、腐った胃液を涎のごとく垂れ流している老人だ。

無論、生きた人間である筈もない。酷い臭いに顔をしかめつつ(まだ“悪臭”を感じ取る理性があったことに驚く)、向こうが距離を詰めてくる前に引き金を引いた。

 たらららら、とまるで小太鼓を連打するような音。間抜けとすら言える。

ゾンビの体と壁に、ミシン目のような穴が空いた。なかなか狙いが定まらない。のび太のようにうまくいかないことが腹立たしい。

 なんとか両手でしっから構え、重心を安定させる。少しはブレがマシになり、ゾンビの顔面が変形していった。どう、と音を立てて倒れる老人。ほう、と静香はひとつ息を吐いた。

「し、静香ちゃん!大丈夫〜?」

「平気よ!ゾンビが一体いただけだから!」

 部屋の外からのび太の声がした。静香はそちらに向かって返事を投げる。

まるで自分を無理矢理鼓舞するかのような張った声。畏れが透けて見えるかのようで、自分で自分が心底嫌になる。

 寝室と洗面所。さてどっちを先に見るべきか。悩んで、静香は洗面所を選択した。恐らくさほど広くはない。早く片付く方から手をつけるべきと判断した為だ。

 穴だらけの木のドア。一体どれだけ月日を得たらこのような有様になるのか。

粘ついた埃に極力触れないよう注意を払いながら、内部を覗き込む。狭い視界の為確実とは言い切れないが、特に動くものはないようだ。正直今はゾンビよりゴキブリの方が嫌なくらいだが。

 錆び付いたノブは外れかかっていた。もはやまともに閉めることも出来ない有様である。思い切ってドアを開く。驚いたのか足元を溝鼠が走り抜けていった。

 

−−危ないものは…無さそうね?

 

 穴だらけの床に、注意深く一歩踏み出した−−その時である。

 

 

 

バキィッ!

 

 

 

「え…?」

 

 抵抗が−−消えた。一瞬体が浮き上がるかのような錯覚。それはそう、遊園地のジェットコースターで、落下する寸前の感覚によく似ている。

 

−−うそだ。

 

 心の中で静香が呟いた途端。空気が、動いた。バキバキと音がする。床が崩落したのだと理解した瞬間、絶叫していた。

 

「きゃああああっ!」

 

 辛うじて、板の端を掴む。しかし、掴んだ先の板も朽ちてボロボロになっていた。体が大きく傾ぐ。駄目だ、支えきれない。

 

「静香ちゃんっ!」

 

 捕まった床板の端が千切れた瞬間、素早く腕を掴まれた。必死な瞳と目が合う。

「の、のび太さ…!」

「動かないで、今引き上げるから!!

 言いかけた言葉を遮るようにのび太が叫んだ。自分の悲鳴を聞きつけて飛び込んできてくれたのだろう。嬉しさと情けなさ、その両方で涙が出そうになる。

 静香の足元には、真っ暗な奈落が口を開けていた。どう見たって一階分の床が抜けただけではない。

どうやら下の方まで床が崩落していたらしかった。恐らく地下三階か四階くらいまで。地下に化け物の飼育所があった為だろう。

 のび太は顔を真っ赤にして、一生懸命引き上げようとしてくれている。

その肘が、腕が、ささくれた床板の木で傷ついたのか、血が筋を引いていた。静香の手まで伝ってくる感覚に、思わず背筋が寒くなる。

 

「む、無茶だわのび太さん…!このままじゃ貴方まで落ちちゃう…!!貴方の力じゃ無理よ…っ」

 

 のび太の腕力は静香を下回る。さらに彼が腹ばいになっている場所もいつ落下するか分からない。

もしこのまま二人とも落ちてしまったら。自分のせいでのび太が死んだら。静香の脳裏に、最悪の想像がよぎる。

 しかし。

 

「無理かどうかなんて…やってみなきゃ分かんないだろ!簡単に出来ないなんて言っちゃ駄目だ!!

 

 のび太は叫んだ。真っ直ぐな目で静香を見据えて。

 

「それに…決めたんだ。君を死なせないって」

 

 はっとする静香に、のび太の声が、言葉が降り注ぐ。闇を祓う、太陽の光のように。

 

「君だけは…何が何でも守るって、決めたんだから!!

 

 どうして、と。静香は心の中で呟いた。いつも臆病なのに、いつも泣き虫なのに。

どうしてこんな時に限ってそんなに強いの。格好良いの。何でこんな自分なんかを、守ってくれようとするの。

 なんて。そんな答え、本当はとっくに分かりきってるじゃないか。

 

!!

 

 きぃぃ、と耳障りな鳴き声。静香は目を見開いた。のび太の背後。天井の隙間から、何かが這い出してくるのが見えた。

ギラギラ光る、眼。ゾンビ化した蝙蝠だと認識した途端、それは襲いかかってきた。

 静香の手を握っているがために、動けないのび太に向かって。

 

「のび太さんっ…!」

 

 のび太も気付いていた筈だ。手に震えが伝わってきた。

恐怖に眼を瞑っていた。それでも彼は逃げなかった−−他ならぬ静香の為に。

 蝙蝠達の鋭い牙がのび太を襲う寸前。光が、一閃した。何が起きたか分からない。

ただ、いつまで経ってものび太が傷を負う気配はなく、蝙蝠達の鳴き声もしなくなっていた。

 

「…よし、ナイスだよ健治さん」

 

 ヒロトの声がしたかと思うと、彼はのび太の後ろから姿を現した。

「ヒロトさ…」

「説明は後!反対の手で俺の手に掴まって。二人で引っ張り上げるから」

 左手はのび太、右手はヒロトに預けて、静香の体が持ち上がった。華奢な見た目をしているのに、思いの外ヒロトは力があるらしい。

やっと宙ぶらりん状態から解放され、着地する。なんとか一同は朽ちかけたバスルームから脱出を果たした。

 

「のび太さん…みんな…。すみませんでした。本当にありが…」

 

 静香が皆に謝罪と礼を言おうとした時だった。

 

 

 

 バチィンッ!

 

 

 

 頬に、鋭い衝撃。目の前に、怒りの眼でこちらを見る健治の姿があった。

健治に頬を思い切り張られたのだ、と気付いた途端−−静香は力が抜け、床にへたりこんでしまう。

 

「…何で、こんな無茶をやった」

 

 怒気を含んだ低い声。

 

「お前の無謀な行動のせいで!お前だけじゃなくてのび太まで死ぬところだったんだぞ!ふざけんな!!

 

 まるで−−父か母が悪い子を躾るような、そんな叱り方だった。健治の顔は怒りに満ちていたが、その眼にあったのは怒りだけではない。

安堵。恐怖。悲哀。それらが入り混じった眼が、静香に教えた。本気で−−心配されてしまったことを。

 ずきん、と掌に痛みが走った。見れば手にいろいろ棘やら何やらが刺さっており、傷だらけになっている。

のび太を見た。彼の左手はもっと酷い有様だ。深い傷ではないが、切ったのかまだ血が伝い落ちている。

 この痛みは、罪。自分がやってしまったことの結果。すっ、とヒロトが傍に来て消毒薬と包帯を出してきてくれた。

 

「今はこの程度で済んだけど。これは運が良かっただけ。分かるよね?」

 

 手当てをしながらヒロトは、静かな声で言った。

 

「焦る気持ちは分かるけど。…やり方を間違えちゃ、いけない。大切な人がいるなら尚更だよ」

 

 のび太と眼があう。大切な人。今、自分にとって一番は。

 

「みんなで生きて帰る。俺達に約束させたのはお前だろ」

 

 健治はそう言って、一瞬泣き出しそうな顔をした。

 

「本当に…無事で良かった」

 

 張られた頬が、熱くて。静香は俯く。視界がゆるゆると滲んだ。

 

「ごめん…なさい…」

 

 全部、見抜かれていた。自分は本当にちっぽけな見栄っ張りだ。でも、少しだけ何かは見えた気がする。

 叱ってくれる人がいるのは、幸せだ。

 

 

 

三十七

失敗

〜ぶれる銃口

 

 

 

 

 

さかしまは坩堝。