――西暦1995年8月、野比家自宅・1F。

 

 

 

 顔を洗い、まずのび太がした事は警察を呼ぶことではなかった。

そもそも受話器を引きちぎられている以上電話を使える筈もなく、1995年の小学生が携帯電話なんて所持している筈もないのだが

−−それ以前に、警察という発想が浮かばなかった、が正しい。

 何故こんな事態になってしまったか。その原因を探り、願わくばこれから起こる惨劇を防ぐ。

その為に一番手っ取り早い方法は時間を遡って確かめる事だ。幸い、自分にはその手段がある。

 けれども。

 二階へ上がったのび太は自分の机の引き出しを開けて目を剥く。普通の小学生男子の学習机ならば、その中には筆記用具やら何やらが入っているのだが自分のは違う。

ドラえもんが使う時間旅行の機器が、存在している筈なのだ。

引き出しを開けた先は時空の狭間に繋がっており、タイムマシンが駐留している筈だった。

 だが、そのタイムマシンが、ない。

 真っ暗な闇−−時空の狭間が見えるのは間違いないのに、タイムマシンだけが姿を消しているのである。

まさかドラえもんが修理に出してしまったのだろうか。

確かに定期的なメンテナンスが不可欠な精密機器ではあるが−−。

 

−−これじゃあ、歴史を変える事も原因を確かめることもできない…!

 

 ついでに、ドラえもんがいつも寝ている押し入れの中を探す。

タイムマシンがなくてもどこでもドアやタケコプター、ショックガンの類があれば充分役に立つ。

普段通りならば、枕の下にスペアポケットが準備されている筈。

 しかし。こちらも、いくら探しても見つからない。流石に何かがおかしい。

タイムマシンとスペアポケットの両方を修理に出してしまった?こんなタイミングで?

いくらなんでも出来過ぎてはいないだろうか。

 そもそも、当の本人は今何処で何をしているのか。

 

−−そうだ電話…電話しなきゃ。

 

 ここに来て漸く“警察”の存在を思い出した。お巡りさんに知らせて、助けて貰うしかない。

再び一階に降りる。相変わらず凄まじい臭いだったが、段々嗅覚も麻痺してきたようだ。

 家の電話が使えないなら、外の公衆電話を借りるしかない。

少ない財産を財布に詰め込み、着替えとタオルに包んだ包丁、念の為救急箱を片手に玄関へ向かった。

 お巡りさんになんて言おう?

ママが化け物になってパパを食べてしまいました。僕のことも食べようとしたので、死にたくないので包丁で刺し殺してしまいました。−−こんな話、信じて貰えるものだろうか?

 そもそもどんな形であれ母親を殺してしまったわけで。つまり自分は殺人者だ。裁判にかけられるのだろうか。死刑になったり、するのだろうか。

 

−−あ、でも…殺されそうになったのを殺したのって…セイトウボウエイになるとかなんとか…。

 

 前裁判アニメが流行った時、スネ夫が自慢げに披露してくれた知識だ。

正当防衛。自分の生命を守る為に相手を殺したのは、罪に問われないケースがある、そうな。

 だが、自分は今回あれだけザクザク刺してしまったわけで。

殺意は否定できないとなれば、残念ながら過剰防衛になってしまうのではないか。

 

−−だとするとやっぱり死刑…なのかなあ。自分の身を守って死刑じゃ意味ないよなあ。

 

 グチグチと余計とも言える思考を回しながら、玄関のドアに手を伸ばした。

半ば現実逃避だったのだろう。頭が冷えて現実を認識したからといって、落ち着いたとは限らないのが人間だ。

 やけにヒンヤリとしたノブを掴み、回す。そのまま思い切り押し開け−−のび太は、絶句した。

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 

 世界が、変わっていた。

 

 

 

 

 

「−−ッ!…っ…−−!!

 

 意味の解らない喚き声、悲鳴、罵声に破壊音。それらが町に溢れ、歪なオーケストラを奏でていた。

 真っ先に目に入ったのは、焔。真向かいの一軒家から火の手が上がっている。家だけではない。

隣の生け垣、斜向かいの庭。煙と焔があちらこちらを舐めまわしている。

 人々が逃げ回っていた。しかしそれは焔から、ではない。逃げる人を追うのも人間だった。

否、正確には“人間だったモノ”と言うべきか。

母と同じ、あるいはそれ以上に全身を腐敗させたゾンビが町中を闊歩し、人々に襲いかかっていた。牙を剥き、白目を剥き、血と腐臭を振りまきながら。

 

「ぎゃあぁぁぁっ!」

 

 すぐ傍で絶叫が上がった。ついその方向を見てしまい、後悔するのび太。女子高生だろうか、セーラー服姿に茶髪の女の子がいる。

彼女の腕に一体、腹に一体、ゾンビが噛みついていた。近所のオバサンとオジサンだったのか。服や頭に面影が残っているのが生々しい。

 ぼぎり、と骨が砕かれる音。

 ぶちり、と肉と繊維を噛みちぎる音。女の子は血だらけで、目玉をひっくり返し、泡を吹きながら叫び続けている。

凄まじい光景だった。食いちぎられた肩からは骨が覗き、脇腹からは腸らしきものが飛び出している。

可愛いらしかった筈の女子高生が、みるみるうちに食われるばかりの肉塊と化していく。

 

「何これ…」

 

 電柱の下に、寄りかかって事切れている学生の死体。

 T字路のド真ん中に堂々と鎮座する、老婦人の首。

 腐りかかった体で唸りを上げる元・柴犬。

 生きた人間に次々群がる土左衛門達。

 

「何だよこれぇぇ−−!!

 

 訳が分からない。鼻がひん曲がりそうな腐臭と血の臭いが町中に満ちている。

おかしくなったのは母だけでも、家の中だけでもなかった。全部だ。自分の知る町、その全てがおかしくなっていた。

 これは夢か。自分はまだ昼寝の続きをしているのか。だとしたら早く、早く醒めて−−!

 

「のび太!」

 

 その時。どこからか声がした。聞き覚えのある少年の声。しかし混乱した頭では、それが誰の声かは分からなかった。

「逃げるな!どんな恐ろしい景色でも…今こそが現実だ。目を背けるな。生きる為に、戦え!!

「だ、誰…!?

 目の前の道路には、死体と化け物しかいない。それでも声は、どこからか確実に聞こえる。

 

「学校へ行け。そこにお前の仲間がいる。このエリアはもうすぐ燃え尽きる。こんな所で焼け死んで貰ったら困るんでね」

 

 声はのび太の質問に答えてはくれない。そのまま、気配は足音とともに消えてしまった。

やっと理解する。どうやらその人物は、向かいの家の塀の後ろから喋っていたらしい。

気付くのが少々遅かったようだ。結局相手が誰かも分からなかった。

 

「今こそが…現実…」

 

 誰かが言った言葉を、繰り返す。

 

「生きる為に…戦う…」

 

 怖い。死ぬほど怖くて気持ち悪い。ゾンビ達がのび太に気付き、緩慢な動作でこちらに近付いてきた。

このまま立ち止まっていたら餌食になるだけだ。のび太は溢れてくる涙を拭い、無理矢理顔を上げた。

 何故こんな目に遭わなければならないのか。何故こんな事になってしまったのか、全くわからない。

確かなのはこの現実からは逃れられないこと。そして、まだ死にたくないという、その感情だけだった。

 さっきのが誰かは分からない。味方なら何故姿を見せてくれなかったのか、疑問は尽きない。

それでも、道は示してくれた。学校へ。そこに仲間がいると、彼は言う。

 それが本当である保証はない。こんな町を抜けて静香達が生きていたら奇跡だ。それでも今は、その奇跡に縋りたい。独りは、嫌だ。

 

「う…」

 

−−逃げるな、僕。いつもみたいにドラえもんを呼んで助けて貰おうなんて考えちゃいけない。

 

「うわああああっ!」

 

−−自分の身くらい、自分で守らなきゃ。そうでなきゃ、僕を守る為に…誰かが死ぬかもしれないんだ。

 

 近付いてきたゾンビの手を、包丁で振り払った。腐った手首が千切れて落ちる。

包丁を構えたまま、のび太は走り出した。戦わなければ。生きる為に。答えを見つける為に。

 母はもう、母では無かったかもしれない。それでも自分が母を殺した事実は変わらない。母は自分の為に犠牲になった。

ならばここで簡単にのび太が死んだら、彼女が何の為に命を落としたか分からなくなる。

 駐車している自動車を乗り越え、落ちていた雑誌や植木鉢をゾンビに投げつけ、時に転び膝を擦りむき。

それでものび太は走った。泣き叫びながら、喚きながら走り続けた。通い慣れた通学路、ひたすら学校を目指して。

 

「のび太ぁっ!」

 

 突然、誰かの声と共に体が持ち上がった。

「良かった…無事だったんだな、心の友よ!」

「ジャイ…アン?」

 日焼けした逞しい腕に抱えられている。見慣れたオレンジ色のTシャツ。すぐに武だと分かった。

どうやら自分は彼に掴み上げられ、空を飛んでいるらしい。武の頭にはタケコプターがついている。

 

「家に帰ったら、やっぱり母ちゃんに買い物頼まれてよ。隣町まで買い出しに行って帰ってきたら、家の中がとんでもない有り様で…」

 

 いつもは猛々しい武の声が泣いている。のび太からその顔は見えなかったが、それで充分だった。

「ジャイ子は見つからなくて、でも母ちゃんが……。訳分かんねぇ。何でこんな、こんな…」

「ジャイアン…」

「ドラえもんから偶々タケコプター借りてなけりゃ、俺もヤバかったかもしれのぇ。

家の周りが、ゾンビのデモ隊に囲まれててよぉ。…はっ…ホラー映画かよっての」

 強がって明るく振る舞おうとするが、完璧に失敗している。のび太は何も言えなくなった。

金属バット一本を持って、どうにかタケコプターで飛び出してきたジャイアン。

自分と同じだ。怖くて怖くて信じられなくて−−でも信じるしかなくて。

 飛びながら見える町の様子は、ヒドいものだった。僅かに生きている人間達は逃げ惑い、次々化け物に捕まっていく。

屋上に追い詰められ、身を投げる人も見えた。まさに地獄絵図だ。

 

「…学校へ行こう、ジャイアン。あそこなら、立てこもってる生存者がいるかもしれないし…」

 

 提案する。武も、行くアテがあって飛んでいたわけではないのだろう。分かった、と頷き方向転換する。

 タケコプターの電池はそう長くは保たない。本来二人分の体重を支えられるようにも出来ていない。

なんとかなっているうちに安全な場所を探さなければ。元より選択肢は多くないのだ。

「しっかり捕まってろよ。暴れたら蹴り落とすからな!」

「はは…それは勘弁」

 まあ今のジャイアンはしないだろうけど。そんな言葉をのび太は飲み込む。

武が自分を助けたのは、単に仲間であるからだけではあるまい。彼もまた、一人でいたくなかったからこそだ。

 

「静香ちゃんやスネ夫は…無事かな」

 

 無事でいて欲しい。今はそう願う他ない。

「…そう簡単にくたばるかよ。何だかんだで俺らだって修羅場抜けてきてんだからよ」

「…そうだね」

 武はそう言ったが、本当は彼も分かっているだろう。

これは今までの冒険とは比較にならない。本物の惨劇の渦中に、自分達は投げ込まれてしまっている。命の保証なんて、ない。

 それでも彼らやドラえもんが無事だと信じるしかなかった。

それをやめたら、後はもう絶望に落ちるしかないのだから。

 

 

 

 

 

亡者

〜形をくした成れの果て〜

 

 

 

 

 

信じること、ただそれだけが。