−−西暦1995年8月、廃旅館・ピアノホール。
いつもながらツッコミたい事はたくさんある。
金庫というからには、部屋の奥の棚の中だとかカウンターの裏だとか−−目に付きにくい場所にあるのが普通だろうに。
何故こんなピアノの真横にどどんと落ちているのだろう。
「…これも罠かしら」
静香は恐る恐る、それに近づく。金庫、といってもテレビに出てくるような大きなものではない。
どちらかというと金属製のケースと呼んで差し支えない大きさだ。ケースはあちこち歪み、錆び付いている。
しかも何やら緑色のぬばねばした液体がついていて、正直触りたくない。
というかもう、汚いものを見るさえうんざりしている。今まで毎日最低二回はお風呂に入る生活をしてきたのだ。
手さえなかなか洗えない環境に、頭がだいぶ拒否反応を起こしている。
「罠かどうか知らないけど…もしかしたらゾンビとかモンスターとかが、どっかから持ってきちゃったのかも。なんかそれっぽい液ついてるし」
「まあ、有り得るね。ゾンビならともかくB.O.Wには多少知能はあるみたいだし。
どう見ても食べ物に見えないコレに、どうして興味を持ったか謎だけど」
のび太とヒロトがそれぞれ意見を述べる。
それにしてもヒロトの準備がいいこと。
いつの間にゴム手袋なんて用意したんだろうか。なんとまあ都合がいい。
この金庫が、さっきの部屋にあったものとは限らない。しかしダイヤル式の鍵である事は確かなようだし、試してみる価値はある。
のび太がヒロトにさっきのメモを渡し、ヒロトがそこにあった番号を回す。
0530−−どこぞのマナちゃんとやらの誕生日。果たして結果は。
「ビンゴ」
かちっ、と錠が外れる音。ヒロトが金庫を開く。そこにあったのは。
「鍵…だね。102号室って書いてある」
二階に上がってくる前、軒並み鍵が開かなかった為後回しにした一階の個室。
どうやらその一つを開く鍵らしい。タグには『沢屋旅館・102号室』の文字が。
「はいみんな、一階に戻るよ戻るよ〜」
「めんどくさい…」
「文句言わないの。俺だってそろそろ発作起こしそうなんだから」
発作ってなんの発作だ。静香が訝しげな顔をしたのを見て、ヒロトがニヤリと笑う。
「サッカーやりたくて堪らなくなる病の発作。…自分で言うのも何だけど、俺も綱海もサッカー中毒でさ。早くやりたいなサッカー…」
つまらなそうに口を尖らせる姿は、普段よりずっと幼い。
いつも冷静で落ち着いてる彼の、初めて子供らしい一面が見れた気がする。なんだか微笑ましくなり、静香は思わず笑ってしまった。
そうだ。自分は風呂に入りたい。彼はサッカーをやりたい。
この町を脱出したら、安全な場所にたどり着いたら−−とにかくやりたい事がある。
それがどんな些細な事だって構わないのだ。小さな欲求だろうと、それがあるだけで人は生きる希望を持ち続ける事が出来る。
忘れてはならない。人生はそうした小さな希望を積み重ねて成り立つということを。
きっとこんな状況でなくとも同じ筈だ。生きる理由なんて、どんなに軽いものでも構わないし、後付けだっていいのである。
何も考えないで生きていける事もまた、幸せには違いないのだから。
「…問題なんだが」
健治が刀をいじりながら言う。
「飼育施設…って時点で覚悟はしてたけどな。この金庫を持ってきたヤツ、まだこの近くウロついてんじゃねぇの。この体液、まだ渇いてないだろ」
緑色の体液だから体もきっとコケみたいに緑色なんだぜ、なんて健治がひきつった顔で笑った瞬間。
ぎゃあ、と音。
人間の声ではない。文字通り何かが軋むような、声とも音ともつかぬものが。今−−すぐ後ろで。
「静香ちゃん!うしろ!!」
「!!」
のび太の声が飛ぶ。静香は反射的に、振り向き様目の前にあった金庫を投げつけていた。
ぎゃっという声が上がる。その隙になんとか、すぐ側に迫っていた“ソレ”から距離をとっていた。
「こいつ…!!」
それは−−ゴリラくらいの大きさの、緑色の生物だった。太い血管が浮かび上がる皮膚は、まるで苔むしたようにヌメリのある体液に濡れ、びくびくと脈打っている。
形だけはゴリラに似ているが、やや退化した目と剥き出しになったギザギザの歯はゴリラとは似ても似つかない。
何より脅威なのは、その異常発達した両腕だ。盛り上がった筋肉はボディビルダーも真っ青だろう。
そのくせ、バランス崩壊気味なほど手が大きい。大きな手には鈍く光る鋭い爪があり、こいつもまた体液でべたべたしている。
そうだ。資料で見覚えがある。このB.O.Wの名前は−−。
「ハンター…!!」
健治が驚愕を声に乗せ、その名を呼ぶ。施設への輸送リストにもその名前はあった。
確か、人間の受精卵に爬虫類とウイルスの遺伝子をかけ合わせて作られた生物−−とかなんとか書いてあったような。
体型と姿から察するに、ハンターの中ではα型と呼ばれる種類だろう。
こいつの武器はなんといっても、両腕と両足の爪。そしてパワーだ。
両足の爪に引っ掛けて天井さえ動き回ることができ、かつ力強い脚力で地面を蹴って獲物に飛びかかる事が可能。
さらには腕力もハンパではなく、一度捕まえられたら逃れる事は不可能だという。
あとはそれから−−それから。
「きゃあっ!」
考察している間にも襲いかかってくる。まったく空気を読んでくれない。静香はどうにかハンターのジャンビングアタックを避けた。
べこり、と床に大穴が開く。冗談じゃない。こんなの爪がなくても、腕力だけで殴り殺されてしまう。
おまけに床に開いた穴の回りが溶けている。そうだ、こいつの爪には致死性の毒があったんじゃなかろうか。
バイオゲラスの毒は、食らってから死亡までタイムラグがあったが、こいつの毒はさらに凶悪なものだった筈だ。掠っただけで命取りである。
「うわああ健治兄ちゃん!階段からなんか登ってきたよ!」
「げ」
階段を振り向き、健治があからさまに嫌そうな声を上げる。なんと階段から、さらにハンターがもう一体這い上がってきたではないか。まるで挟み撃ちだ。
いずれにせよこれで、無視して一階に逃げるという選択肢はなくなってしまった。
−−倒すしか…ない!
静香はヘルブレイズ改・Y型を構える。この銃の難点は、サブマシンガン式に弾が連射されるため下手に狙いを外すと仲間を巻き込みかねないということだ。
この密集地に自分以外に四人も人間がいる。慎重に狙っていかなければ。
「大丈夫」
不意に、背中に温もり。のび太が背中あわせに、すぐ後ろに立ったのが分かった。
「君は僕が、守ってみせるから!」
どうしてだろう。今まで何度も聴いた台詞なのに、こうして涙が滲みそうになるのは。
「…だったら」
静香は思う。この温もりを、優しさを。自分は失いたくない。
「だったらあたしが、のび太さんを守るわ!」
お姫様ではいられない。夢見る少女じゃ生き残れない。
だから静香は引き金を引く。それで、運命に風穴を空けられるのだと、信じて。
−−西暦1995年8月、学校校舎・放送室。
武が文句を言わなくなりつつある。本来それはスネ夫にとって喜ばしい事である筈なのだが−−その理由が理由なだけに、そうも言い切れないのが現状だった。
少し前まで、あの仮面の少年が潜んでいたと思しきこの部屋。
さっきの日記以外にも、何か手がかりがないかと探しているのだが。するとまた妙なものが出てきたのである。古新聞だ。
「ボロボロだし黄ばんでるし、古新聞なのは間違いないんだけど…」
スネ夫は何回も記事を見返し、文字を睨む。やはり、変だ。
「…今は1995年の八月…なのに」
「…ああ」
夕日新聞。スネ夫の家でもとってる新聞だ。見つけたのその夕刊なのだが、日付がどう考えてもおかしい。1995年の十一月二十五日、だなんて。
しかもその記事の一面がまた衝撃的なニュースを報じている。
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『謎の奇病か?京都でも暴動発生』
本日未明、京都駅付近で暴動が発生した。駅前広場で暴れていた若者数人に警察官が声をかけたところ、若者達は警察官に噛みつくなどの暴行を加え、応援に駆けつけた警官隊と衝突した。
若者達は先日大阪で報じられた奇病と同じ症状を見せており、噛みつかれるなどした人間までが次々と暴徒と化すという現象が起きている。
職務を全うする筈の警官も暴徒に加わった様子が目撃されている。
さらにこの奇病にかかると、痛覚が消失するらしいという報告もあり、手足か骨折したり切断したりといった重傷を負っていても動き回る事が可能なのだという。
また、中には明らかに死亡している筈なのに理性を失って行動し続けるという例も報告されているがまだ確認はとれていない。
(中略)
該当区域は既に封鎖されており、現地取材は不可能とのこと。
死傷者の数は既に把握されておらず、今も尚増え続けている可能性が極めて高い。周辺地域には避難勧告も出ている。
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「京都まで…このウイルス騒ぎが広がっちまった…ってことだよな」
武がごくり、と唾を飲み込む。
「でも何で未来の新聞なんだよ。しかもボロボロになってるし」
武の疑問はスネ夫の疑問でもある。そしてこの場にいるメンツが自分と彼だけである以上、頭脳労働のお鉢が回ってくるのは自分だ。
残念ながら武にアタマ関係は任せられない(なんて口に出したらまた殴られること必至だが)。
−−そういや。無線機や薬のラベルの日付が未来だった理由も解明されてないんだよな…。
この事件は最初から何かがおかしい。ただアンブレラの開発した生物兵器が事故で漏れただけとは、考えにくい点が多々ある。
その最たるものが、ちらちらと見え隠れする未来人の影だ。
学校には有り得ないブツ(無線機なんて特に)がある事から、それら全てアンブレラのものかと思っていた。
しかしよく考えてみれば、あれらを持ってきたのがアンブレラだという確証はないし、そもそもアンブレラがやらかした犯罪に未来人が噛んでいたならタイムパトロールが黙っていないはず。
ならば。アンブレラとは無関係に、未来人が来ていたとすればどうだろう。
そいつ自身が大きな犯罪に手を染めなければ、タイムパトロールが動かないのも道理ではないか。
「もしかして…あの仮面の奴も、未来から来たのかも」
まだハッキリした証拠はない。この新聞記事が彼のものという確証はないのだ。だからこれはあくまでスネ夫の推測。
「そんでもって…この事件の真相を明らかにする為に未来から来た…なんてことはない?」
「それなら…筋通らないわけでもねーけど…」
渋面を作る武。
「なら何でその未来の奴が、のび太を殺そうとしてんだよ」
「…だよね」
そう、問題はそこなのだ。スネ夫は唸る。まだ情報が足りない。もう一度彼と接触できれば早いのだけど。
第四十二話
狩人
〜無慈悲な獣〜
漆黒は輪廻。