−−西暦1995年8月、廃旅館・1F102号室。

 

 

 あれ、おかしいな。のび太は首を捻った。ついさっきまで自分は、今にも崩れそうな廃旅館にいた筈だ。

それも、静香達と一緒に。なのに何故、意識を飛ばしたほんの一瞬の間に景色がひっくり返っているのだろう。

 のび太は一人、大都会のど真ん中に立っていた。空には無数に透明なチューブが走っており、中を車輪のない車が走っている。

耳にイヤホンのような通信機をつけた人々が行き交い、目をチカチカさせたロボットが我が物顔で闊歩している。

 足元を見た。足元の地面は無数のビーズで舗装されている。これはそう−−両の足で歩かずとも前に進むことの出来る道路だ。

進め、と念じれば念じるほどスピードが出る。−−以前銀河鉄道で旅をした時、20世紀人の自分達はそれを知らなくて、22世紀の子供達に馬鹿にされたのでよく覚えていた。

 ここは、そう。22世紀。今までのび太が何度も見た事がある、22世紀の世界だ。

 しかし何故自分は突然22世紀にタイムワープしたのだろう。

タイムマシンに乗った記憶はないし、他にドラえもんの道具も借りていない。そもそも今まで一緒にいた仲間達はどこへ消えてしまったのか。

 

「静香ちゃん?健治さん?」

 

 呼びかける。通り過ぎる人達がやや不思議そうに振り返ったが、のび太を気にかける者はいない。

 

「ヒロトさん?太郎?みんなー?」

 

 インカムのスイッチも入れる。しかしノイズがヒドくて繋がる気配はない。

本当に22世紀に来てしまったなら、繋がらないのも当たり前なのだが−−。

「あら?のび太さん?」

「!」

 突然後ろから声をかけられ、のび太は振り返った。体が硬直し、反射的に身構える。

そんな鬼気迫るのび太の様子に、声をかけてきた相手が小さく悲鳴を上げた。

 

「ちょ…びっくりさせないで。何よそのリアクションは」

 

 可愛らしい声。のび太はポカンとして口を開けた。

 

「ど…ドラミちゃん?」

 

 黄色い大きな頭。真っ赤なリボン型の耳。ドラえもんによく似た、妹ロボットのドラミだ。

彼女は驚いた顔でこちらを見ていた。買い物帰りなのか、手に袋を下げている。

「ご、ごめん。…でも、なんで…」

「ああ、これ?偶にはあたしも、ネットショッピングじゃなくて生でお買い物したい時があるのよ」

 のび太の疑問を別の方向に解釈したらしく、彼女は笑顔で袋を見せる。

 

「レトロなんだけどね、やっぱりメロンパンの食べ歩きに勝る幸せはないのよね。

できたてを見たら家まで待ちきれなくて、宅配サービス断っちゃったわ」

 

 本当に幸せそうだ。彼女の手にはかなりビックサイズのメロンパン。

袋にはわざわざ“期間限定・メロンゼリー入りビッグメロンパン発売中”という宣伝文句まで入っている。未来堂というお店がドラミの御用達らしい。

「そ、それはいいんだけど。…僕、さっきまで20世紀にいた筈なんだけど…」

「やだのび太さん。寝ぼけてるの?のび太さんはお兄ちゃんと二人でセワシさんのフラットに遊びに来たんじゃない」

 ドラえもんと?のび太が眉を寄せると、向こうから道路を猛スピードで滑ってくる人影があった。

「ちょっとドラミちゃん!置いてかないでよ!!

「あ…!!

 黄色を基調とした未来人の子供服に、のび太と瓜二つの顔。なんだかかなり久しぶりに会った気がする。

「セワシ君!」

「あ、のび太おじいちゃん。どうしたのこんなところで」

 のび太の未来の玄孫であるセワシだ。頼むからおじいちゃん呼びはやめてくれ、といつも言っているのに直る気配がない彼である。

 セワシものび太を見て、別段驚く様子がない。

という事は、やはりのび太がドラえもんと遊びにきたというのは間違いないのだろうか。

廃旅館なんて−−ススキヶ原がアンデットの町になってしまったなんて−−そっちの方が夢だったんだろうか。もしそうならば、どれだけいい事だろう。

「聴いてよのび太おじいちゃん。最新のファイナルドリームシリーズが発売されたからさあ、

下見かねて生体験しに行きたかったのに…ドラミちゃんてば荷物持ちさせた挙げ句僕のこと置き去りにしたんだよ?」

「あたしは最初に言いました。ゲーム売場に行くなら置いてくしお金出してあげませんって」

 涙目のセワシに、ドラミはツンとそっぽを向く。

「宿題ちゃんとやって、次のテストで赤点免れたらゲームを買う約束でしょ。

宿題放置して遊びほうけてる人に買ってあげるわけないじゃない」

「そんなぁ」

「のび太さんもちゃんと宿題片付けてきた?駄目よ勉強はちゃんとやらないと」

「そ、そんなママみたいなこと言わないでよドラミちゃん」

 ママみたい。自分でそう言ってしまってから、深く傷ついた。

おかしいな。これが現実ならば、母は化け物になんかなっていないし、死んでもいない筈なのに。

なのに何で涙が出そうになるんだろう。

 

「ちょ…のび太さん?どうしたの?まさかまた0点とっちゃった?」

 

 さすがにのび太が泣くとまでは思っていなかったのだろう。ドラミがオロオロした様子で顔を覗きこんでくる。

 

「だ、大丈夫…」

 

 心臓が痛い。胸の中がぐらぐらするような変な感じだ。

現実と夢の境界線に中途半端に片足を突っ込んでしまったような違和感。

この、やけに鼻につく甘い匂いはドラミのメロンパンのせいだろうか。

 

「せ、セワシ君のうちへ行こうよ…せっかく遊びにきたんだし…こんな場所で…」

 

 そうだ、振り払え。

 

「こんな場所で立ち話なんて、勿体無いよ…」

 

 セワシの家まで行けば、ドラえもんがいる。そうすればこんな違和感も拭える筈。今が現実だとハッキリ認識出来る筈だ。

 そう。“アッチ”が夢なんだ。バイオハザードなんて起きない。起きるわけない、だって自分は−−。

 

 

 

 

 

「のび太ぁ!」

 

 

 

 

 

 ぱしゅん。

 

 

 

 

 

「え?」

 

 誰かが鋭くのび太の名前を呼び。瞬間、甘い匂いが吹き飛んだ。

その途端、22世紀の景色がぐにゃりと歪む。ドラミとセワシの笑顔が、水に滲むインクのように溶けて、空気の中へと散っていく。

 あ、と。喉が発する意味のない母音。嗅覚が、埃とすえた木の匂いを拾った。微かな腐臭と、鉄錆の匂いも。

 顔が冷たい。何かを吹きかけられている。それを自覚した瞬間、のび太はカッと目を見開いていた。

 

「−−−ッ!!

 

 22世紀の景色はもう、どこにもない。あるのは茶色い壁。天井。視界の隅の蜘蛛の巣と誰かの手。スプレー缶。

どうやら誰かがのび太の顔にスプレーを吹きかけたらしい。それで眼が醒めたという事なのか。

「のび太!良かった、気付いたか!!

「け…健治、さん…?」

 視界に健治の顔が映り込む。のび太は頭を振りながら、なんとか体を起こした。

自分はどうやら気絶していたらしいが−−一体何が起きたのか?そして今のやけにリアリティのある夢は何だったのか。

 そう。自覚してしまえばどうしようもない。

本当は分かっていたのだ。22世紀に遊びに行った幸せな夢を、自分は束の間見ただけ。生きるか死ぬかの今こそが現実。

 分かっていたのに−−この喪失感は、何だろう。

 

「…やられたんだよ、俺達は」

 

 ほれ、と健治が何かを指で摘んで、のび太の眼前に突き出す。

まるで血のような斑点がついた緑の葉っぱ−−それは見覚えのあるものだった。

「これ…金田さんが言ってた…」

「新種マリファナ。…ちょっと匂い嗅ぐだけでここまでトリップさせられちまうとは。迂闊だったぜ」

 理解が追いつく。そうだ自分は、鍵を手に入れた102号室へ踏み行って−−そこで意識を飛ばしたのだ。

どうやら自分は、部屋に入った瞬間嗅いだこれの香りにあてられて、幻覚を見てしまっていたらしい。

 

−−あれが夢なんて…本当に酷いや。

 

 唇を噛み締める。ドラミの笑顔も、セワシの慌てた顔も、こんなに鮮明に思い出せるのに。

それは単に自分の願望が投影されただけで、本当は何一つ存在していなかっただなんて。

 中途半端に幸せな夢なんて見たくなかった。そうすれば、忘れかけていた絶望を思い出す事も無かったというのに。

「う…ぅ…」

「ヒロトさん、大丈夫?」

「ああ…ごめん。俺とした事が迂闊だった」

 ヒロトが静香に肩を支えられている。ただでさえ白い顔が、今は完璧真っ青だ。

自分同様幻覚にやられていたらしいヒロトが頭をおさえてうずくまっている。

 

「吐き気がするくらい最高の夢だったよ。…トラウマが強ければ強いほど、リアリティのある夢を見るのかもね」

 

 いつになく苛ついた口調で言うヒロト。

ヒロトのトラウマって何だろう。少し前ののび太ならストレートに訊いてしまったかもしれない。今はもう、そんな事は出来ないけれど。

 のび太はまだくらくらする頭を叩きながら、辺りを見回した。

部屋の真ん中で、傭兵らしきスーツとマスク姿の人物が倒れている。

頭が半壊し中身が出ていることから、ゾンビになって復活する事はもうないだろうが−−問題はそいつの体の脇にあるもの。

 ガラスケースが割れ、新種マリファナの葉があっちこっちに散ってしまっている。そのせいで狭い室内に香りが充満してしまっていたらしい。

「こいつが部屋の中で死んでたせいで、えらい目に遭ったなおい。…おーい太郎、起きろー」

「肉まんが十個…肉まんが百個…幸せ…」

「…何の夢見てんだお前は」

 なかなか太郎が起きないので、仕方なく健治が彼を背負いあげる。

「あーこら!涎垂らすんじゃねぇ!幼稚園児か!」

「むにゃむにゃ」

「…なんか幸せそうだね、太郎君…」

 まあ肉まんの夢なら見ててもそんなショックは受けないだろう、多分。

のび太はそう思って解決を放り投げた。深く考えるとおなかが減りそうである。というか、減った。

 

「アンブレラの人達…非常食の缶詰めとか持ってないかなあ」

 

 死体から食べ物を探すなんて本当は嫌だけど、背に腹は変えられない。

頭以外に傷がない死体だからまだマシな方だ。手がかり探しも含めて物品を漁る。

「…できれば遠慮したいよ。軍支給のレーションって不味い事で有名らしいから」

「これ以上テンション下げさせないでヒロトさん…」

 ふと疑問を感じ、のび太は死体を漁る手を止める。この傭兵の遺体、少し妙だ。

ゾンビやB.O.Wにやられていたならもっと食い荒らされてもおかしくないのに−−この頭の傷。

爪や牙というより、何か砲弾のようなもので吹っ飛ばされたような印象を受ける。

 

−−アンブレラの奴が…僕ら以外の人間に攻撃を受けたってこと?

 

 そこで思い出したのが、スネ夫が会ったという仮面の少年。

しかし彼の武器は銃だった筈。銃以外にバズーカ砲のようなものも所持していたのだろうか。或いは。

 

−−銃火器を扱う人間が…まだ他にもいるのかな。

 

 何故だろう。進めば進むほど謎が増えていくような気がするのは。

 そもそも自分達はちゃんと前に進めているのだろうか。自分達の意志で、自分達の進みたい方へ?

 悩めどもまだ光は見えない。今出来るの事はただ、足掻き続ける事だけかもしれない。

 

 

 

四十四

〜それはさながら、のような〜

 

 

 

 

 

回帰は哀愁。