−−西暦1995年8月、廃旅館・1F102号室。
部屋の中には、特にめぼしいものはないようだった。アンブレラの男はこの部屋の利用者ではなかったのかもしれない。
室内には驚くほど生活感がなく、ソファーやテーブルには埃が積もっていた。自分達と同じように部屋に探索しに来ていたと考えるのが打倒である。
遺体の向きから考えるに。部屋に入ろうとしたところを、後続の誰かに撃たれたような感じだ。
内部で裏切りがあった可能性もある、と健治は言う。静香は遺体を漁る役ではなく部屋の探索に回してもらっていた。
彼なりの優しさだろう。年齢のこともあり、流れで彼が皆のリーダーシップをとる事が多い。
『…何で、こんな無茶をやった』
さっきの出来事を思い出す。
『お前の無謀な行動のせいで!お前だけじゃなくてのび太まで死ぬところだったんだぞ!ふざけんな!!』
思い出したらまた平手をくらった頬が熱くなった。本当に優しい人、なんだろう。
なんだか子供の叱り方にも慣れてる気がした。太郎が懐いたのも、単に彼に助けられたから、だけではないと思う。
「…健治さんって、実は弟か妹いたりする?」
子供の扱いに慣れているのは、そういう事なのではないか。そう思って静香は尋ねてみる。
「いるぜ。双子の妹と弟。一緒に住んでなかったからな、まだ無事な筈だぜ」
花瓶をひっくり返し、中を覗きこみながら健治が言う。
中身が入ってたら顔にブチ当たるんじゃないかと思うが、そういった発想はないらしい。頭は良い筈なのに、どこか抜けている気がする。
「へぇ、だから子供好きなのね」
「別に好きじゃねーって。気がついたら懐かれてるだけだ」
「でも、放っておけないんでしょう?」
太郎とのやり取りを見ていればわかる。そして静香へ言った言葉も。
「それってやっぱり、“好き”ってことなんじゃない?」
どちらかというと消去法的思考なのだが。嫌いならばまず近寄らないだろう、と思うのである。
近付いたところでもっと嫌々な様を見せたっていい筈だ。それがないならば少なくとも彼にとって“嫌い”という方向ではない筈である。
「…多分違うな。お前が思ってるようなもんじゃねぇよ」
すると、健治は。やや作業の手を止めて言った。
「ガキが泣いてるのを見たくないだけだ。思い出すからな…自分自身のことも、弟達のことも。
…要はエゴだ。トラウマ抉られんのが嫌だから助けてるだけだ」
「トラウマ?」
訊いていい事では無かったかもしれない。一瞬健治の顔が、見えない苦痛に歪んだから。
「……はは。さっきの幻覚で…ますます思い出しちまった。頭の中でガキが泣いてんだ。…行きたくないって、あのガキどもが。
俺の両親離婚して、双子は母方に引き取られて…バラバラになったからな」
とっさに、静香はなにを言えばいいか分からなくなった。同じように話を耳にしたのび太、ヒロト、太郎も固まっている。
「…親父は教育熱心だったけど、酒癖最悪で。一時期俺は毎日殴られて、泣いて過ごしてた。
泣いてるのは今の俺じゃねぇけど…まだ頭のどっかで、ガキだった昔の自分が泣いてる声がする気がする。
…だから嫌なんだ、ガキが泣くのは」
だからお前らにも泣いてほしくないんだ、と。健治は右手を静香の頭に、左手を太郎の頭に乗せて言った。
「…こんな事になっちまったし。これは俺の勝手なエゴだけどよ。
…お前らが幸せになって笑ってくれたら、忘れられる気がする。あの声も、聴こえなくなる気がする」
「健治…さん…」
「だから、絶対。…生きろよ。これから先、何があっても。俺に出来ることならなんでもしてやるからさ」
多分。言うほど軽い傷ではない筈だ。口にする事さえ苦痛だった筈だ。
泣いているのは今の自分でないと健治は言ったが−−静香にはまだ彼が泣いているように思えてならなかった。
「…忘れなくたって、いいよ」
頭を撫でる手が温かい。優しかった母の手を思い出した。
健治と違い、当たり前のように愛されてきた自分を思い出した。
「無理に忘れなくたって、いいよ…健治さん。だってその辛い気持ちがあるから…健治さんはこんなに人に優しくできるんじゃない。
その傷だって全部あなたでしょう?少なくとも…あたしはそう思うわ」
涙が滲む。苦しいのは自分ではないのに。
「だから…無理に消さなくていいから。健治さんも、生きて。あたし達みんなと一緒に、幸せになろうよ」
愛したっていいじゃないか。縛り、誰も触れないように、閉じこめてきた自分自身を。
殺す必要はないじゃないか。胸の奥て泣いている、幼い頃の傷を。
「…優しいのはお前だよ、静香」
やがて健治は微笑んで−−すぐ傍の静香にしか聴こえない声で、言った。
「でもお前が一番優しさを向けるべきは俺じゃない。…お前は何があっても、のび太の味方でいてやってくれよ」
「え?」
「あいつは…こんな所で死んでいい奴じゃない。…あいつは光だ。俺達全員にとってな。
お前が無茶なんかしないでのび太を守ってくれるなら、俺がお前らを守ってやる」
どういう意味なの、と訊く前に。健治は立ち上がり、歩いていってしまった。
タイミングをわざと外された気がしてならない。静香は暫く手持ち無沙汰でその場に座り込んでいた。
拒絶された、わけではないと思う。ただ、ありのままに受け入れるには、あまりに傷は深いのかもしれない。
他人の幸せを願うことで幸せ気分に浸る、無意識の偽善者になる。それがエゴだと知っているから、必要以上の苦痛を感じているのかもしれない。
根本から心を抉られた人間を、どうすれば救う事が出来るのだろう。
それを考えるにはあまりに静香は今までが幸せすぎた。恵まれすぎていた。今日という日をまだ心のどこかで受け入れられずにいるのだから。
「…ヒロト。結局どうだよ。収穫あったか?」
「弾薬とか手榴弾とかはまだ余りがあったから貰えるけど。スマホ以外に情報源持ってないね。メモ帳一つないよ。
まあ俺達の時代じゃ携帯をメモ代わりにする奴も少なかったしなあ」
ヒロトが肩を竦める。どうやら傭兵も大したものは持ってなかったらしい。
未来では手書きのメモも廃れていくのだろうか。そういえば22世紀の世界では、紙媒体の書籍や手帳なんて見たことないなあと静香は思う。
と、一つ疑問が浮上した。スマートフォン−−この時代には存在しない筈の、未来の機械。
「…ねぇ。おかしいわよね。この時代にスマートフォンはないのよ。つまり…対応する電波塔なんて立ってる筈もない」
携帯本体だって、まだ普及率は全人口の2%かそこらの筈だ。今の時代の携帯の電波塔で代用できるとも考えにくいのだが。
「そんな機械が…果たしてこの時代で、通信機として役に立つのかしら」
「鋭いね。その通りだよ静香ちゃん。たとえ未来からスマートフォンを持ち込んだところで、本来この時代で使える筈がないんだ。…ところが」
スマートフォンの液晶を、ヒロトの指が滑る。そして彼が見せたのは、メールの履歴だ。
「見て。…こいつは仲間とメールでやり取りしてる。つまり、この機械がこの時代で使えてるんだ。
考えられる事は一つしかない。このスマートフォンは、世界の狭間に立てた電波塔を使って通信を行っている」
ヒロトいわく。彼らのように異世界犯罪を取り締まる役職についている者は、その権限で世界の狭間の電波塔を使用することが出来るという。
そうでなければ異世界にいる仲間と連絡がとれないからだ。
しかし。それは彼らでさえ制限の中でのみ許されること。
許可を貰ってない人間は勝手に電波塔を立てる事も使用する事も出来ない筈なのだという。
「俺達にそれを悟られず電波塔を立てて使用し、この世界に機械を持ち込む…こんな事できる奴、アルルネシアくらいしかいないね」
個人的な因縁もあるのかもしれない。アルルネシアの名前を出す時、ヒロトの目なは明らかな憎悪の色がよぎる。
何があったんだ、なんて。簡単に尋ねるにはあまりに重い色が。
「…そのスマートフォン…だっけ。メールには何て書いてあるの」
のび太が訊けば、ヒロトは頷いてその画面を皆に見せる。静香ものび太の横から液晶を覗きこんだ。
TO:アルファ
FROM:シータ
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こちらシータ〜。やっとコイツに慣れてきたぜ。画面綺麗だし超便利(笑)
この仕事終わったら飲む。飲みまくる!アルファ参加しね?
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TO:シータ
FROM:アルファ
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おま、勤務中にこーゆーメールまずいってば!…飲み会には行くけど。
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TO:アルファ
FROM:シータ
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そーこなくっちゃ☆メールあとで消しときゃバレないバレない〜
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TO:シータ
FROM:アルファ
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消しても実は記録残ってるらしいぞ。俺機械疎いから知らねーけど。
以後真面目に仕事の話をするよーに。俺もう減給はヤだ。
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TO:アルファ
FROM:シータ
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ちぇ。暇なときくらいいいじゃんかね。ってか命張ってる実行部隊の給料下げんなよモチベーションガタ崩れるつーの。
ただでさえ飯まずいしゾンビだらけで気が滅入るってのに。ストレスでマジ死ぬ。煙草吸いてー!
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「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
全員、沈黙。なんというか、緊張感なさすぎる内容だ。というかまず職務用の携帯を私用に使うのがどうかと思う。
「…日本語なおかげで、ダベってる光景が目に浮かぶわ。こいつも相方も日本人だったんだな」
「まあ、アンブレラは日本人もたくさん働いてるからねぇ…」
健治とヒロトと苦笑しながら言う。
「…この人のコードネームは“シータ”だったらしいね。αやβやθってのは、軍じゃよく使われる名前だ。本名で動くのはリスク高いし」
頭が半壊しているせいで、この遺体が白人か黄色人種か黒人かなんて分からなかったが。確かに、よくよく見ればさほど大柄ではない。体格が比較的小柄な日本人だというのも頷ける。
「…こいつはプロ意識も低く、口が軽い人間だったみたいだな。…おかげで既に一つハッキリしたぜ」
「うん。僕もわかったよ」
のび太が固い表情で言った。
「ゾンビだらけ…ってことは。この人は今日…バイオハザードが起きてからここにに来たんだ。何らかの目的があって」
拾い上げられる情報から、緩やかに紐解かれていく真実。
「…なかなか良い掘り出し物をしたのかもね、あたし達は」
少しずつ、闇へと近付いていく。歩を進める。その先に待つ魔女と、隠れ潜む悪意の渦の中へと。
第四十七話
携帯電話
〜可能と、不可能〜
強襲は教習。