−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間前。

 

 

 ドラえもん。その名前を、まるでまじないか何かのようにのび太は呟く。

思えば自分はいつも当たり前のように彼に泣きつき、助けて貰ってきた。彼の友情に、当然のごとく甘えて。

そのくせ思うようにならないとすぐ駄々をこねて困らせた。甘やかさないこともまた愛情だと、少し考えれば分かった筈なのに。

 どうして彼はいつまでも姿を現さないのか。何故仮面の少年のものと思しきノートにドラえもんの名があったのか。

分からない事だらけで、頭がパンクしそうだ。ドラえもんの行動も考えも何一つ見えない。

あんなに長く一緒にいたのに、自分は思っていたほどドラえもんのことを知らなかった事に気付く。

 

−−僕はいつも君に救われてきたけど。

 

 ドラえもんを恨む気はさらさらないが。自分自身を怨む気持ちは、時間が経てば経つほど募る。

 

−−果たして僕は…君を助けることができてたんだろうか。

 

 守ってくれていた分、恩返しはできていたか?むしろ恩をアダで返すような真似はしていなかったか?

 後悔は募るばかりだ。このままじゃ自分は自分をどんどん赦せなくなる。

早く、ドラえもんに逢いたい。逢って−−彼が今何を考え何をしていようと−−ちゃんと謝りたい。

謝って、それからお礼を言わなければ。伝えたいのだ。

今まで彼がずっと一緒にいてくれた、傍で笑ってくれた−−それだけで自分がどれだけ幸せだったかという事を。

 

「…のび太」

 

 声をかけられ、のび太ははっとして顔を上げる。健治だった。

「悩んでるみたいだから言っておく。俺は、ドラえもんって奴がどんな奴かよく知らない。

逢ったこともない。だから、お前らの関係がどんなものだったかも…分からねぇ」

「……うん」

「でもな。親友だったんだろ」

 ぽん、と。頭の上に手を乗せられる。撫でられる。のび太は言葉が、出なくなった。

 

「お前が言ったんだぜ。一度友達になったら、何回ぶつかろうが友達なんだって。俺はそんなお前が信じた…お前の“友達”を信じる」

 

 その手の温もりが。大好きだった父を思い出させたから。母が怖い人だった分、穏和な父はよく母の宥め役になって。

偶に怒ると怖かったけど、自分をたくさん誉めてくれたのだ。今の健治のように、頭を撫でながら。

 健治の温もりと言葉が、緩やかに胸の奥に落ちていく。不思議だ。これでいいんだと、自分は間違ってないのだとそう思えてくる。

「お前の“友達”が、お前を本気で殺しに来る筈がねぇよ。…仮面のガキとドラえもんがツルんでたとしてもだ。お前みたいな奴を、誰が本気で殺そうとするもんか」

「何で…そう思うのさ」

「簡単だ。お前はみんなを幸せにする奴だからさ」

 自分がみんなを幸せにする?のび太は戸惑いながら健治を見た。

 

「そうだろ。お前が臆病なのは優しいから。いざって時に頑張れるのは仲間思いだから。

…お前の行動が、言葉が、無意識に周りの奴を救ってんだよ。それは胸張って誇れることだ。そろそろ気付いてもいいんじゃねーか?」

 

 健治の声は、驚くほど優しかった。

 

「だから…何があっても、自分を捨てんな。

もしお前がどうしても自分を見失いそうになったら…こんな事言ってた奴もいたなって思い出してくれよ」

 

 涙が、出そうになる。違うよ、と言いたかった。優しいのも強いのも仲間思いなのも自分じゃない。

あなたの方だと言いたかったのに−−言葉は嗚咽になって消えていく。

「のび兄ちゃんって…泣き虫?」

「た…太郎にだけは言われたくない…っ」

「僕泣き虫じゃないもん!注射でも泣かなかったもんっ」

「太郎相変わらず空気読もうぜ…」

 どうにも“泣き虫じゃない”ことにプライドがあるらしく、太郎はちょっと拗ねてしまったようだ。

頬を膨らませているあたりがなんとも幼くて可愛らしい。感動的な場面だったのにブチ壊しだ。のび太もつい笑ってしまう。

 そうだ。自分を信じられないなら−−健治を信じよう。

友達は友達だ。ドラえもんが自分を殺そうとしてるんじゃないか、なんて。疑う方がどうかしていた。

 友達は友達だ。ずっと友達なのだ。信じよう。自分がドラえもんを信じなくて、誰が信じるというのか。

 

「さて、広間まで来たわけだけど」

 

 大広間の扉を見てヒロトが言う。

 

「結構立派だよね、これ。こんな辺鄙な場所にある安旅館にしてはお金かかってるっていうか」

 

 確かに。重くずっしりした板は、映画館の防音扉のようだ。

扉には二匹の金竜が這っており、ぎょろりとした眼でこちらをねめつけている。

その背景にうねるは雲の波。和風というより、なんだか中華な雰囲気の扉だ。

 しかし、さっき来た時は気付かなかったが−−どうにも違和感があるような。

灰まみれで老朽化の進んだ旅館にしては、この扉だけ妙に綺麗な印象を受ける。まるで誰かが手入れしていたような。

 

「いくらなんでもこれ、力技で破るのは無理だろうなぁ」

 

 健治が苦笑しながら扉の前に立つ。

「無理矢理壊そうとしたら壁の方がイカレそ……あれ?」

「え?」

「嘘」

「なんで?」

 皆が皆それぞれに驚きの声を上げる。健治が言った。

 

「…鍵開いてんだけど。扉」

 

 沈黙。のび太は動揺しながらも必死で頭を回した。さっき来た時は確かに鍵がかかっていた筈だ。

自分と静香が二人がかりで押しても引いても動かなかったのだから間違いない。

 確かに自分はそう腕力はないけれど−−実は健治もあまり力がない方だとは薄々気付いている。

彼の戦い方は相手の力を受け流してのカウンター主流だ。自分達二人合わせた腕力より健治一人の腕力が上ということはないだろう。

 

B.O.Wやゾンビに…鍵を開け閉めする知能はない…のよね」

 

 静香が青ざめた顔で言う。

 

「だったらやっぱり…」

 

 この旅館の中に。自分達が来た後で鍵を開けた人間がいたということになる。

仮面の彼か。アンブレラか。魔女か。いずれにせよそれが示すことは、高い確率での−−罠。

「だからって…行かないわけにはいかねぇだろ」

「そうなんだよね…」

「理科室の時みたいになったら困る。今度は分断されないように、ほぼ同時に全員で入るぞ」

 健治の意見に皆が同意する。のび太は扉の右側に手をかけた。五人でゆるゆると扉を押していく。

 その時だ。

 

 

 

「そこまでだ」

 

 

 

 切り裂くような、声が。

 

!!

 

 のび太ははっとして振り向く。その目先に、鋭い剣先を突きつけられてぎょっとする。

小柄ながらも、目玉を抉らんばかりの威圧感で−−その少年は立っていた。黒いコートに、無機質な仮面を身につけて。

「お前…!」

「全員動くな。動いたらこいつの眼を抉るぞ」

「んなっ…」

 顔は見えないのに、殺気を漲らせてこちらを睨んでいるのが分かる。のび太は冷や汗をかきながら剣先と少年の仮面を交互に見た。

 やはりそうだ。今の声。自分には聞き覚えがある。

 

「お前達をこれ以上先に進ませる訳にはいかない。…このまま行けばまた、誰かさんのシナリオ通りになるだけのようだからな」

 

 シナリオ。その言葉に、のび太達は無意識に互いの顔を見合わせてきた。

分からないではない。自分達はほぼ間違いなく、何者かに導かれて此処にいる。

不自然に落ちていた鍵。残されていた資料。電気のついた旅館。いつの間にか開いていた、広間の扉。

 しかしそれが誰の誘導かは分からずにいた。可能性としては目の前の彼がクロであることも考えられたのだが−−。

 

「君じゃないの?僕達を誘導してきたのは」

 

 丁度いい。こちらも訊きたいことがたくさんあるのだ。

 

「バイオゲラスを安雄君にけしかけたのは君?僕を…」

 

 どうして。何故。疑問とともにこみ上げる感情。

 

 

 

「僕を殺そうとするのは、どうしてなんだ」

 

 

 

 ごくり、と。唾を飲み込む音さえ聞かれてしまいそうだ。ゾンビやB.O.Wと対峙した時とは種類の違う恐怖。悪寒。

刃を目元に突きつけられていることもかなり精神を削ったが−−それ以上にのび太が怖いと感じたのは、その感情。

 理性や常識を持たない怪物達は、殺意や食欲、敵対心といった本能は向けてくるけれど。本能の外にある人間固有の感情を叩きつけてくることは、ない。

 だが目の前の彼は違う。のび太が今彼から感じるのは、殺意さえ霞むほどの−−憎悪。

今まで想像もしていなかったことだ。誰かに本気で憎しみを向けられるのが、こんなにも恐ろしいことだったなんて。

 

「…お前などに教える義理はない」

 

 声変わりさえ終えていない筈の声なのに、まるでヤクザの男が放つかのようなドスの利いた響き。

刃先をのび太の喉元にズラし、ただ憎悪を解き放つ言葉。

 

「貴様はただ黙って死ねばいい。憎いから殺す。それ以上の理由が必要か?」

 

 無茶苦茶だ、と思いつつ。それを口にしたが最期、頭と胴体が泣き別れするのは目に見えている。

のび太はただ気圧されていると悟られないよう−−悟られたらその瞬間剣が動く気がして−−黙りこむしかなかった。

 

「…納得できるわけない」

 

 言葉を発したのは、静香。

「あなたがどこの誰か知らないけど…それで納得できるわけないでしょ!

あたし達にとってのび太さんは大切な人で…仲間なの。

誰かに恨まれるような人じゃないって、此処にいるみんなもいないみんなも知ってる!!

「静香ちゃん…」

 普段の静香からは想像もつかないほど強い声。不覚にものび太は涙が滲みそうになった。

ああ、これじゃあまたスネ夫や太郎に泣き虫だとからかわれるじゃないか。

 

「どうしてものび太さんを殺したいなら…あたしが相手になるわ」

 

 まるで動揺したように、少年の剣が揺れて−−刃がゆっくりと下ろされた。

静香が小さく息を吐く。啖呵を切ってみせたものの、本当は静香も怖かったのだ。恐怖がありながらも、のび太を守ろうとしてくれた。

 その事実に、胸が熱くなる。こんなにも、愛しい。

元々あった好意ではあるけれど、こんな状況になってからますますそれを実感させられている。

「…静香。君と戦う気はない。俺が殺したいのはのび太一人だ」

「…だから、放送室でも…スネ夫さんを撃たなかったの?」

「……」

 少年は答えなかったが、その沈黙は肯定に他ならなかった。

 

「……俺の望みは一つだけだ」

 

 やがて彼は口を開く。

 

「終わらせたい。全ての悲しい事を…悪い夢を。この悪夢の真実を解き明かし、一人でも多くを救う道を探したいだけだ。

お前達がこのまま進めば、また犠牲が出るのは目に見えている」

 

 のび太は混乱する。彼はどうやら、犠牲を防ぐ為自分達の前に立ちはだかった−−らしい。しかし。

 

「それが何で…のび兄ちゃんを殺すことに繋がるの?」

 

 健治の服の裾を握りしめ、太郎が泣きそうな声で問う。そう、それが一番の謎なのだ。しかし少年はまたしても沈黙してしまう。

 答えたくないのか、答えられないのか。

 

 

 

「あらあら。面白い事になってるわねぇ」

 

 

 

 空気がドロリと濁ったのは、次の瞬間だった。

 

 

五十三

仮面

魔の、クロニクル〜

 

 

 

 

 

間の魔。