のび太は最初。あの絵の中から、人が抜け出してきたのかと思った。それほどまでに彼女の姿は、絵の中の魔女と瓜二つだったのだ。

 ウェーブのかかった茶色の髪に、深紅の瞳。同じ色のルージュを引き、同じ色の派手なドレスを身に纏った−−それはそれは美しい、魔女。

年は二十八くらいだろうか。成熟した大人の色香を噎せるほど撒き散らし、彼女はそこに立っている。

 そう。今まで誰もいなかった筈の−−その空間に。

 

「初めまして…な子と。そうじゃない子がいるわね」

 

 女は妖艶に嗤いながら、恭しくスカートの裾を持ち上げる。

 

「お話中ごめんなさいね?このまま放っておくとツマラナイことになっちゃいそうだったから…登場させて貰ったわ」

 

 美しい姿。やや鼻につくも、声もその容貌を損なうようなものではない筈だ。

なのに、のび太は不思議でならない。

彼女の何一つとっても欠けた部分はなく、外見だけで言えば完璧と言っても差し支えないのに−−どうして自分は今、不快感を感じているのだろうか。

 

「…やっと姿を現したな、アルルネシア」

 

 ヒロトが唸るように言う。

 

「今度は何をやらかす気だ。いや…違うな。どこまで世界を踏みにじる気だ」

 

 アルルネシア。ヒロトは彼女をそう呼んだ。という事は、やはり。

「お前が…災禍の魔女…!あの絵にあった…ヒロト達が追いかけてるっていう…!」

「そうよ。あたしが災禍の魔女アルルネシア。…黒き魔法の真の伝導者と言うべきかしらね」

「貴様が…!」

 仮面の少年が忌々しいと言わんばかりに長刀を構える。のび太以外の人間に彼の憎しみが向けられた瞬間だった。

 

「貴様…目的は何だ。貴様とアンブレラは何をしようとしている?

何故この街にウイルスを撒いた…何故!…アンブレラを裏で操っていた二ノ宮蘭子という女は、お前のことなのか!?

 

 少年が誰か、まだハッキリとは分かっていない。

しかし、彼がアンブレラ側ではなく、のび太以外の人間に対してはただ純粋に救いたいと願っているのは確かなようだ。

真実を解き明かしたいと考えているのも嘘ではないだろう。

 こうして全ての元凶かもしれない存在であるアルルネシアに対し、憎悪を漲らせる様は−−とても演技とは思えない。

「あら、意外と調べてるじゃない。そうよ。二ノ宮蘭子っていうのはこの世界でのあたしの名前。

ウイルスの研究にあたしが関わっていたのは間違いないわね」

「な…っ」

「でもねぇ?T−ウイルスは元々この世界で作られたものだし…何もかもあたしがやった事じゃないのよ?

そもそもこの町が運命に選ばれたのが偶然じゃないんだから」

「どういう意味だ、それは」

「やだ。あなたは分かってるんでしょう?」

 アルルネシアはくすくすと嗤って−−のび太の方を、指さした。

 

 

 

「宿命の魔術師、野比のび太。貴方が全ての元凶。貴方が引き寄せたのよ…この悲劇も、このあたしの存在もね!」

 

 

 

 とっさに。言葉が出なかった。自分が全ての元凶?自分のせいで−−この事件が起きた?

 

「惑わされないで、のび太君!」

 

 ヒロトの鋭い声が飛ぶ。

「魔女の最大の武器はそのズル賢い頭脳でも莫大な魔力でもない…力ある言葉。

人の心を引き裂く言葉そのものが武器!耳を貸しちゃ駄目だ、魂を持ってかれるぞ!」

「そうだ、ヒロトの言う通りだ!」

 ヒロトに続けて健治も叫ぶ。

「何がどうしたらお前のせいなんて事になるんだよ!?お前は一度だってみんなの不幸を望んだのか?

違うだろうが!お前は何も間違っちゃいない…俺が保証してやる!」

「健治さ…」

「俺を、信じろ!」

 力強い言葉に、のび太の中で揺らぎかけていたものが固まる。

そうだ。何を動揺したんだ自分は。アンブレラなんて今まで全く関わったこともないわけで。

バイオハザードなんて現実を願ったことなんて一度もないわけで。

 ならばアルルネシアの言葉は出鱈目以外の何者でもない。揺らぐ要素など、まったく無いではないか。

 

「奇跡の魔術師…片瀬健治。貴方もまた力ある言葉を操り、白き魔法を扱う者のようね。厄介だわ」

 

 アルルネシアの顔から笑みが消える。

 

「貴方もいずれこのあたしの手中に収める。でも今は…のび太を手に入れることが最優先。

貴方がいるとこの子は揺らがない…はっきり言って邪魔よ。一足先に退場して貰うわ」

 

 突然だった。バンッと音がして、大広間へ続く扉が開け放たれる。

その向こうの闇が、まるで獲物を待ち構える獣のように大きく口を開ける。

 

「エアロ」

 

 魔女がスペルを紡いだ瞬間。突風が吹き荒れた。まずい、と思う間すらなく。

のび太のすぐ後ろから悲鳴が上がった。健治と太郎が、大広間の中へ吹き飛ばされる。

 

「健治さん!太郎!」

 

 二人が飲み込まれた瞬間、扉が勢いよく閉まった。そして、魔女が手を振ると−−がしゃんと中から音が。

手も触れず、鍵をかけてみせたのだ。慌ててのび太はヒロトと共に体当たりするが、扉はびくともしない。

「そんな…!健治さん!太郎!」

「汚い真似を…!」

 分断された。しかもアルルネシアの言いようからすれば、ただ彼らを室内に閉じ込めただけではあるまい。魔女はここで、健治を始末する気なのだ。

 

「きゃははははっ!イイ顔になってきたわよぉ、のび太ちゃん!

もっともっともっともっと!絶望に染まった顔を見せて頂戴な!きゃはははははぁっ!!

 

 魔女は甲高い声で高笑いする。喜悦に顔を歪めながら。狂気に身をくねらせながら。

 

−−狂ってる…!

 

 吐き気がするほどの、悪意。のび太は理解した。何故彼女と対峙するだけで不愉快な気分になったのか。

美しいと言える筈のその容姿さえ、そんな感情を抱けないのか。醜悪なケダモノにしか、見えてこないのか。

 こいつは、人間じゃない。魂の根っこから何かが腐っている。こんな醜い存在−−おとぎ話でさえ聞いたことがない!

「…そうか…貴様が健治を…!貴様のせいで…!」

「悔しい?悔しい?…うふ…どうする気なのかしらぁ!?

「鍵を開けろ。さもなくば…!」

 仮面の少年が、刃を振りかぶり魔女に踊りかかった。しかしアルルネシアはひらりと身をかわしてみせる。余裕綽々といった様が忌々しい。

 

「運命を変えたいなら…力ずくで突破してみせることね…きゃははっ!」

 

 パチン、とアルルネシアが指を鳴らす。その途端、天井の板が音を立てて外れた。

虫のような化け物−−ブレインディモス。長い舌を持つ化け物、リッカー。それらが何匹も天井から落下してきた。

 危うく下敷きになりかけたのび太は、すんでのところで身を転がしていた。

ブレインディモス。資料にもあったB.O.Wだ。組み付かれたら死亡フラグまっしぐら。生きたまま酸で溶かされるなんて冗談じゃない。

 恐らく、大広間の中にもB.O.Wが潜んでいる。太郎を守らなければならない上、銃を持たない健治一人で戦うとなると、かなり厳しい筈だ。早く助けに行かなければ。

 

「やってやる。健治さんと太郎を…死なせるもんか!」

 

 のび太はヘルブレイズ改・Z型を構える。今ここで、B.O.Wを従えた魔女を倒して、鍵を奪ってやる。それ以外に二人を助ける道はない。

 その時初めてのび太は自分の意志で、人の姿をした存在に銃を向けた。大切な仲間を守り、道を切り開く為に。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間。

 

 

「つっ…!」

「わあっ!!

 吹き飛ばされ、健治は背中から床に倒れた。地面がカーペットだったのが不幸中の幸いか。

強かに打ちつけたものの、大したダメージではない。それより心配なのは太郎だ。とっさの事で庇ってやることが出来なかった。

「太郎!大丈夫か!?

「だ…大丈夫。でも…まっくらで何も見えないよう」

「しっかり掴まってろ。手、離すんじゃねぇぞ」

 繋いだ手が離れなくて良かった。健治はそろそろと立ち上がり、壁づたいに歩き出す。

ずっと電気の下にいたせいで眼が慣れない。まるで墨を塗りたくったような闇だ。

 しん、と。耳なりがしそうなほどの静寂。防音設備が整っていたのか、扉の向こうの声さえ聴こえない。

だが、何かが潜んでいるのは間違いないだろう。あのトチ狂った魔女は健治が邪魔だと言った。ならば自分を始末する為に閉じ込めたと考えるべきだ。

 

「悪ぃな太郎。お前は多分巻き込まれただけだ。…あんま怖い思いさせたくなかったんだけどな」

 

 いや、そんな事は今更と分かっているが。太郎を見ていると妹と弟を思い出す。

どうしても放っておけなくなる。まあ、理由はそれだけでもないのだろうが。

 

「僕、大丈夫だよ」

 

 闇のせいで太郎の顔は見えない。それでも握り返してくる手の強さは分かる。

「健治兄ちゃんがいてくれるなら、怖くなんかないよ」

「…俺なんかをあんまアテにすんじゃねぇぞ。人間、最後に自分を守れるのは自分だけなんだからな」

 この子供を守ることで。自分にはそれだけの価値があると、そう信じたいだけかもしれないけれど。

 

「ま。…俺が生きてるうちは、仕方ないから守ってやるけど」

 

 助けたい。そう真摯に思う気持ちだけは、確かなのだ。

 

「…あった」

 

 壁づたいに進んでいた健治の手が、堅い突起を探り当てる。

大抵電気のスイッチというやつは、扉の近くの壁にあるものだ。形状からするにパチリと押すタイプではなく、回して明度を調整するタイプのようだ。

 これでもし電気がつかなかったらシャレにならない。祈るような気持ちで、拳サイズの円盤を回す。

 

「…よし」

 

 ふわり、と周囲が明るくなった。良かった、と健治はほんの少しだけ安堵する。

太郎の手をしっかり握りしめ、辺りを見回す。どんな罠があるか、どんな化け物が潜んでいるか分からないのだ。慎重にいかなければ。

 パーティー会場として力を入れていたのは確かだろう。

手入れのされていない赤絨毯はだいぶ汚れていたが、有名人の結婚式の披露宴に使ってもよさそうなくらいの広さはある。

ただし今はテーブルも椅子もなく、ただがらんとした空間が広がるのみだったが。

 窓はない。扉の反対側には簡易ステージがあり、側面には椅子やテーブルを収納しておくのだろう引き戸がある。

豪奢な金の模様で埋め尽くされた壁は、やや悪趣味に感じるほどだ。

 

「あ!」

 

 不意に太郎が声を上げた。

「見て見て健治兄ちゃん!鍵が落ちてるよ!」

「鍵だぁ!?

 周りばかり見ていたせいですぐには気付かなかったが、確かに広間のど真ん中に光るものが落ちている。青いタグがついた、どこかの鍵だ。

「もしかして地下の“かんりにんしつ”とかの鍵かも…!」

「お、おい待て太郎!」

 あからさますぎる罠だ。健治は止めようとしたが、一足遅かった。

太郎は手を離して走り出してしまう。小さな手が鍵を掴む。そして嬉しそうな声が上がる。

 

「健治兄ちゃん!やっぱりこれ…!!

 

 その瞬間だった。耳をつんざく吠吼が。健治ははっと目を見開いた。

 

「上かっ…!」

 

 シャンデリアの上に、そいつがいた。自分達を黄泉へと誘う怪物が。

 

 

五十四

魔女

禍を、撒き散らす者〜

 

 

 

 

 

零のゼロ。