獣の吼える声。それを認識するや否や、健治の足は動いていた。

とっさに太郎を抱きかかえるようにして、危険地帯からの脱出を図る。しかし。

 

 ずしゃっ。

 

「ぐあああああっ!」

 

 背中に、灼熱。次いで何か重たいものが地面に着地する音。痛みを歯を食いしばりながら、健治は床を転がる。腕の中の太郎が悲鳴を上げた。

「健治兄ちゃ…血が、血が!」

「た、大した傷じゃねぇ…!心配すんな!!

 痛いが、傷は深くないだろう。肩も腰も動く。身を起こせる。筋を痛めるようなこともない。

 だが。多分自分を攻撃してきたものは、B.O.Wの爪なわけで。

 

−−畜生…感染しちまった!

 

 此処まできてなんということか。悔しさに唇を噛み締める。しかし、うだうだ言っている暇はない。

ここで絶望していたら、ゾンビになるより先に奴らの餌にされてしまう。

何より、太郎はどうなる?自分が食われたら次は間違いなく彼の番だ。

 

「畜生…最悪だぜ。」

 

 まったく本当に、なんでこんな目に遭ってるんだか。今更ながら途方に暮れたくなる。暮れる時間なんかないけれど。

 

「俺一人でゴリラ三体相手かよ。冗談キツいぜ。モテるならタカコちゃん系の可愛い女の子が良かったっての」

 

 耐えられないほどの痛みではない。太郎を背中に庇いつつ、健治は立ち上がる。

どうやら、件のB.O.Wはシャンデリアの上と天井に隠れていたようだ。何ですぐ気付かなかったのだろう。重力無視は彼らの専売特許ではないか。

 そいつらは、黒くて筋肉むきむきの巨体に、デカい口を持っていた。

カラーリングの違うハンターにも見える。ただ、こちらの方が体型がずんぐりした印象で目が退化気味だ。

あちらが爬虫類ならばこちらは文字通り黒いゴリラだろう。体に這う紫色の血管が実に気色悪い。

 フローズヴィニルト。地下飼育所で飼われていた化け物のうちの一種。資料も既に読んでいる。

こいつらにはバイオゲラスのような特異な能力はないが、その剛腕は岩をも砕く。

また、オリジナルの再生能力はとにかく異常で、頭を切り落とすか潰さない限り死なないとあった筈だ。

 加えて。B.O.Wの中でもそれなりに知能を持ち、仲間との連携プレーも可能と聞いている。

そんな奴がまさか三体同時に出現するなんて、ツイてないとしか言いようがない。

 

−−ってか、偶然でもないか。あの女どうせ分かっててわざと俺らを此処に放り込んだんだろうし。

 

 奇跡の魔術師だとかなんとか言っていたが、どういう意味なのだろう。

自分には特別な力なんてない。しかし何故かアルルネシアはそう考えていて、健治を邪魔だと感じたらしい。

 

−−決定。こいつらブッ倒したら、問い詰めてやる。ついでに抗ウイルス剤持ってたらブンどってやらあ。

 

 そうとでも考えなければ、気が変になりそうだった。死ぬことより、アンデットになることは遥かに恐ろしかった。

もし自分が化け物になって、仲間達を襲ってしまったら。そう思うと気が変になりそうである。

 

「わああっ!」

 

 爪を振りかぶるフローズヴィニルトの一撃を、なんとかかわした太郎。

正確にはかわしたというより、尻餅をついたからかわせたと言うべきか。このままではマズい。何よりまずは彼の安全確保が先決か。

 健治は周囲を見回す。鍵はかけられてしまった。大広間の外には出られない。

ならばせめて一時的にでも太郎が身を隠せる場所があれば。小柄な彼だ、その気にればちょっとした隙間に身を押し込むこともできるはず。

 

「ぎしゃあああっ!」

 

 濁った声で喚きながら、フローズヴィニルトが突進してくる。

太郎はまだ腰を抜かしたままだ。間に合わない。太郎の体に覆い被さるので精一杯だった。

「ぐうっ…!」

「健治兄ちゃん!」

 左肩を鋭い爪が抉る。痛い。刺さった爪が肩から抜ける感覚といったらもう、吐き気を通り越して内臓までブチまけてしまいそうだ。

血がだらだらと左手を伝う。血の噴き出し方から察するに動脈は傷つけなかったのか。不幸中の幸いだ。

 太郎を立ち上がらせ、なんとか化け物達から距離をとる。

このままではいずれ囲まれるか、壁際に追い詰められるか。ああ、その前に自分達がなぶり殺される可能性もあるのか。

 

「…やられてたまっかよ」

 

 痛みに青ざめ、脂汗をかきながらも健治は刀を抜く。

 

「あいつと仲直りするまでは死ねねぇつの」

 

 仕方ないから自分が大人になってやる。達也の奴にこっちから謝ってやったっていい。

そうだ。こんな場所で得体の知れない魔女の慰みモノになるくらいなら、親友に土下座した方が千倍マシだ。

 それに。

「お前を死なせるわけにはいかねぇしな、太郎」

「健治…兄ちゃ…」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、健治に縋りつく太郎。守ってやる。他の誰でもない、それは自分自身との誓いだ。

 

「第一。俺らがここでむざむざやられたら、のび太の奴もびーびー泣きそうだ。ハンパなく寝覚め悪ィぜ」

 

 あの太陽を。自分のせいで堕とすようなことがあってはならない。

それこそあのキチガイ女を喜ばせるだけだ。ああ、あの魔女。一目見ただけでハッキリした。

 あの女は自分の敵だ。だって−−こんなにも特定の誰かを嫌いだと思ったのは初めてなのだ。

自分をストレスと欲のはけ口にしてきた父にすら、こんな気持ちは抱かなかったというのに。

 

−−考えろよ俺。太郎を隠して、かつこいつらを倒す方法…!絶対何かある筈なんだ!!

 

 じりじりと迫ってくる黒ゴリラ三兄弟。そのうち中央の一番デカい奴が(この際だから長男ということにしてしまえ)ぐっと足に力をこめる。

 飛びかかってくる気だ。理解した直後、健治は太郎を抱えて飛んでいた。

 

「ぐぅっ!」

 

 今度は攻撃こそ食らわなかったが、バランスを崩して転倒する。

傷ついた肩をもろに床にぶつけて激痛が走った。意識が飛びかけるが、何故か奴らの第二撃がこない。

 

「ぎゃがゃぎぁが」

 

 まるで嗤うような気色悪い声を上げる三匹。さっき自分を貫いた“三男”が、美味しそうに爪についた血を嘗め上げる。

ぞっとした。こいつらは、狩りを楽しんでいるのだ。逃げ惑う獲物をじわじわなぶってやろうという魂胆に違いない。

 捕獲されたら、生きたまま手足を引きちぎられ、腸を抜かれるくらいされそうだ。

 

−−だけど…勝機があるとすりゃそこだ。

 

 こいつらの油断を、慢心を逆手にとる。追い詰められればネズミだって猫を噛むのだ。

 

「人間…ナメんじゃねぇぞ、魔女!」

 

 戦え。諦めたら敗北だ。向かってきた一体に、健治は刃を振りかぶった。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、廃旅館・。

 

 

『のび太!のび太ぁ!』

 

 インカムからスネ夫の、殆ど悲鳴に近い声。

『大広間で健治さんと太郎が…フローズヴィニルト三体に襲われてる!健治さんが怪我を…!!

「そんな…!」

 フローズヴィニルトを三体もけしかけるなんて−−相手は子供二人で、片方は完全に非戦闘員だというのに。なんてことを。

 いや。いや。それよりも大事なのは“健治が怪我をした”という事実。

もし奴らの爪や牙にやられたのならそれはつまり、彼が感染したことを意味する。

 

「酷い…っ!」

 

 のび太はぎっと目の前の魔女を睨みつける。

するとその殺意が心地よくて堪らないと言わんばかりに、アルルネシアは高々と嗤い声を上げた。

「きゃははっ!そぉそぉそぉよぅー!あたしはその顔が見たかったのよぉ!今とってもチャーミングよあなた達ィ!!食べちゃいたいくらいだわぁっ!!

「…狂ってる…お前は…悪魔だ!」

「ありがとぉ。最高の誉め言葉だわぁ」

 駄目だ。こいつには何を言ったって無駄。寧ろ喜ばせるだけだ。

『のび太…早く!早く助けに行ってくれ…このままじゃ…健治さんが…っ』

『畜生っ…奴ら卑怯すぎる…!頼む、のび太!』

「分かってるっ!」

 スネ夫には、なぶられ続ける健治達の様子がモニターで見えているのだ。

多分中の電気を健治がつけたのだろう。スネ夫の泣き声と武の怒声が、緊迫した状況を物語る。

 早く助けにいきたいのはこちらも同じ。しかしのび太達もけして安全な場所にいるわけではないのだ。

 

「きゃっ…!」

 

 リッカーの長い舌を辛うじて避ける静香。ワンピースの裾が破れている。ギリギリの回避だ。

 

「…くそっ!」

 

 その隣では、酸を吐くブレインディモスの一撃をなんとか避けるヒロト。

ヒロトの攻撃力は高いがいかんせん武器が武器だ。中距離攻撃が本領のブレインディモスとは少々相性が悪い。

 ならば自分があちらを倒すのが先決か。のび太は銃を構えて、奴の顔面に集中砲火を見舞う。

 

「ギキャァァァァ!!

 

 緑色の粘っこい体液を撒き散らし、ブレインディモスがもんどりうって倒れた。

まったく気持ち悪いったらない。こいつに比べたらまだバイオゲラスのがマシだ−−あくまで生理的嫌悪という一点でのみ、だが。

「ヒロトさんはリッカーメインで叩いて!僕と静香ちゃんでブレインディモスを減らすから!」

「オッケィ!!

「分かったわのび太さん!!

 問題は−−自分達がB.O.Wで足止めを食っている間に、アルルネシアに手を出されたらどうにもならないということだが。

そのアルルネシアをあの仮面の少年が強襲している。すぐにこちらに攻撃が向くことはないだろう。

 少年の剣術レベルは相当なものだ。流れるような動きで、まるで自らの手足のごとく長刀を操っている。

無謀な連続攻撃にもいかず、一撃入れたら離れるヒットアンドウェイ。かなり戦闘訓練を積んだのだろう。

 だからこそのび太は不思議でならない。

自分の予想が正しいなら、少年の正体は“彼”である筈だが−−以前見た“彼”は武闘派なんて言葉とはほど遠い生活をしていた筈だ。それが一体何故。

 

「ふふふ…さすがね、“銀翼の騎士”。でも」

 

 だが。アルルネシアはその彼の攻撃を全て、手に持った金のハンマーで軽々と受け止めている。

受け流している、のではない。体重の乗った少年の一撃を、涼しい顔で全て跳ね返してみせているのだ。

 

「残念だけど。肉弾戦でも…あたしは強いのよ!」

 

 アルルネシアはハンマーを思い切り振った。

 

「がっ!」

 

 攻撃をしにいった筈の少年が、紙のように軽々と吹っ飛ばされる。

のび太は愕然とした。女のくせになんて腕力だ。あの少年が明らかにパワー負けしている。

 壁に叩きつけられ、少年が呻く。杖が掠めたのか。あるいはその衝撃の余波か。少年の仮面の左半分に、ぴしりと罅が入り。

 高い音を立てて、砕け散った。

 

「くそが…っ!」

 

 憎しみに呻き、歯軋りをするその顔は。

 

「やっぱり…君だったのか」

 

 のび太は呆然と呟いた。ああ、予想はしていても呆然とせざるを得なかった。

 

「セワシ君…。そんな…どうして、君が」

 

 仮面の下から現れたのは、のび太とそっくりの顔。そっくりでいて違う顔だ。

 22世紀を生きる筈の、のび太の曾孫にあたる少年がそこにいた。以前とは似ても似つかぬ、漆黒の殺意を身に纏って。

 

 

五十五

魔獣

ローズヴィニルト〜

 

 

 

 

 

士の死。