獣の吼える声。それを認識するや否や、健治の足は動いていた。
とっさに太郎を抱きかかえるようにして、危険地帯からの脱出を図る。しかし。
ずしゃっ。
「セワシ君…何で君が20世紀に…?」
疑問と疑念。溢れに溢れ、空間を満たす。
「それに何で君が僕を…僕が消えたら子孫の君も消えるのに」
のび太は震える声で尋ねる。そうだ。自分と同じくらいの年の少年で、未来人で、ドラえもんと関わりのある人間。
それであっさりセワシの存在に思い至ったはいいが、そこから先の謎がどうしても解けなかったのだ。
何故ならセワシはのび太の子孫。結婚せず子孫も残さないままのび太が死ねば、彼の存在もまた無かったことになる。
悔しいがセワシは自分よりも聡明だ。それが分からない筈がない。
「…言っただろう。お前に教えることは何もないと」
セワシはぎろりとのび太を睨みつけて言う。
「確かに…お前が消えれば俺もまた消えるだろう。だが俺は…自分の存在に代えてでも成すべきことがある。
俺の命と引き換えに世界が救われるなら本望なんだよ」
「引き換えに、って…」
何で。それではまるで本当に−−のび太がいるから世界が滅ぶと言わんばかりではないか。
分からない。肝心なことが何一つ。
「のび太君、上っ!」
ヒロトの声に、反射的に身をかがめた。我ながら素晴らしい勘の良さだ。
そうでなければリッカーの舌に串刺しにされていたに違いない。まったく、あのリーチの長さは反則だ。
「空気読んでよもーっ!」
「そんなスキルのあるB.O.Wなら今頃サーカス団で引っ張りだこだよ!火の輪くぐりも見せてくれるんじゃない?」
「そんでもって綱渡り?お相撲さんでも乗れるような綱用意しないと駄目でしょっ!とっ」
ヒロトの声にはまだ余裕がある。それで安心した。冗談を言い合うのはある種互いの無事を確認しあう挨拶だ。
背中合わせに立ってすぐ、同時に前へ転がった。ブレインディモスの吐きかけてきた酸が、さっきまで自分達が立っていたあたりの床を溶かす。
段々B.O.Wとの闘いの要領も掴んできている。必要以上のスタミナを消費しない動きも実践で学びつつある。これはもう笑うべきか泣くべきか。
「はっ!」
静香がヘルブレイズ改・Y型の引き金を引く。パラララ、とサブマシンガンがミシン目を開ける特有の音。
ブレインディモスは厄介な敵だが一つ弱点があった。酸を吹きかけた直後、一瞬動きが止まるのだ。
加えて見た目より装甲が脆い。硬直したタイミングで一斉掃射すれば割とあっさりカタがつく。
無論、酸を吐き出すタイミングを見計らう目と、チャンスを見逃さず正面に飛び込む度胸は必要だが。
「ガギャア!」
静香の銃撃でブレインディモスの頭が弾ける。これでブレインディモスは四匹仕留めた。
あと残るはリッカーが二体とブレインディモス一体。そしてアルルネシア本人のみ。
問題は。アルルネシアを倒せたところで、果たしてそう簡単に負けを認めてくれるかどうか。大広間の鍵を開けられなければ何の意味もない。
そもそも魔女というからには魔法が本領の筈なのに、さっきから彼女はハンマーでセワシと近接戦闘を行うばかり。
にも関わらず、セワシの刃はまだ一度もアルルネシアにダメージを与えられていない。明らかに、パワーと体格差で負けている。
−−くそっ…時間が!時間がないっていうのに!!
このままじゃ健治と太郎が、フローズブィニルトの餌食にされてしまう。魔女が鍵を持っている保証もない。
ならば正攻法以外を考えなければ。なんとかこの重い鉄扉を破る方法はないか。
この、詰みを目前にしたかに見える盤上。しかし必ずどこかに隙はある筈だ。何故ならまだチェックメイトは宣言されていないのだから。
考えろ。テストの点は悪いけど−−とっさの閃きには定評がある。そうやってギリギリのところをいつも切り抜けてきたんじゃないか。
諦めなければ可能性はゼロじゃない。けしてゼロにはならない。身を持って知っている。ならば。
−−そうだ…!
のび太ははっとして顔を上げた。光明。自分達にこの扉を破るのは無理でも−−B.O.Wならばどうだ?
しかも自分達の目の前にはあと三体もいる。リッカーとブレインディモス。なかなか悪くないカードではないか。
「静香ちゃん!ヒロトさん!!」
のび太は叫ぶ。
「やれるかもしれない…この扉を、破壊するんだ!」
「どうする気なの?」
「僕の言う通りにして!うまくいくか分からないけど…これ以外に多分方法はないよ!」
それから、今まさにアルルネシアに刃を弾かれたセワシに声をかける。
「セワシ君、君も協力して!!」
「な…誰が貴様などに!」
セワシは驚愕し、次には憎悪の声で答える。だがのび太は怯まない。怯む暇などありはしない。
「君が憎いのは僕だけなんだろ!?君は…君だって健治さん達を助けたいから此処に来たんじゃないのか!?」
そうだ。思えば彼は何故自分達が大広間に入るのを邪魔しようとしたのか。大広間に化け物が潜んでいるのを知っていたからではないか?
だから、のび太以外を死なせたくないから、脅してでも止めようとしたのではないか?
やや発想が飛躍している気もするが。きっと間違いではあるまい。
自分の知っているセワシと今の彼はもう同じではないかもしれないけれど−−友達を思う気持ちは、変わらない筈だ。
自分はそう、信じている。世界の為に命を捨てようとしている奴が、ただの悪人であるわけがない!
「僕は友達を助けたい!君も同じなら…今だけでいい、手を貸してくれ!!」
叫ぶのび太。この瞬間だけでも、届いて。願いを。希望を。
「お手並み拝見ね、宿命の魔術師さん?」
アルルネシアがくすくすと嗤う。その忌々しい顔を睨みつけるのび太。
魔女の思い通りになどなってやるもんか。人間の心がそう簡単に折れると思ったら大間違いなのだ。自分達でそれを、証明してやる。
−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間。
太郎を庇いながらではやはりキツい。健治は少々焦り始めていた。既に傷をもらってしまった自分は今更だが、太郎を感染させるわけにはいかない。
なんと今のところは自分の体を使ってガード出来ているが、それもどこまで保つか怪しい。
ぶんっ、とフローズブィニルトの太い腕が振り下ろされる。なんとかかわしながら、健治は刀でその腕を斬りつけた。
−−駄目だ、浅い!
鋼ではなく、異常発達した分厚い筋肉の堅さ。刃は食い込むのに、全て筋肉に阻まれてしまう。やはり腕や足を攻撃しても無意味だ。
打開しなければと思っているうちに次が来る。足元を抉られ、ダメージこそ受けなかったもののすっころぶ羽目になった。
腕の中の太郎が悲鳴を上げる。ズキズキとあちこちの傷に響いた。
「あ…!」
転がった先。目に入ったのは、大広間を整備する為の清掃用具や機材が入った倉庫のドア。
トイレなどのそれとは違い、あれならばそれなりに広い筈。小柄な太郎一人隠すのは訳ないだろう。
「太郎!あのドアに隠れて中から鍵をかけろ!!こいつらは俺がなんとかするから!!」
「で…でも!」
「馬鹿!今はそれが最善だ、さすがに今くらい空気読めや!!」
渋る太郎を抱えて駆け出す。フローズブィニルト三体もそれに気付いてか、雄叫びを上げて追いかけてきた。
「がっ!」
背中に、衝撃。転びかけるが、なんとか持ち直す。
−−無駄に知恵が回りやがって…!
どうやら一体が砕けた石でも投げてきたらしい。振り向けば、他の二体も石を持ってスタンバイしている。
「キャッチャー一人にピッチャー三人とか無茶振りしすぎだっての!」
言ってる側から次々石が飛んできた。さすが剛腕。しかも石が尖っているもんだからかなり痛い。
太郎の方に石がいかないように気をつけるので精一杯で、自分が避けることが出来ない。
だがなんとか、掃除用具入れの前まで来た。ドアを勢いよく開ける。鍵がかかっていなかったことを、今ほど神に感謝した瞬間はない。
「いいか太郎!誰か来るまで絶対開けるんじゃねぇぞ!!」
「嫌…健治兄ちゃん死んじゃ嫌…っ!」
「俺は死なねぇよ!」
涙でぐしゃぐしゃの太郎の顔。その頭を乱暴に撫でて、健治は笑った。
「少なくともお前を守りきるまでは、死なねぇから。…約束だ」
太郎を倉庫の中に突き飛ばし、扉を閉めた。
「早く!鍵をかけろ!!かけねぇとぶっ殺すぞ!!」
ドアごしに太郎の嗚咽と、がちゃりと錠の落ちる音。それでいい。健治は心から安堵する。これで太郎は暫く安全だ。
こんな場所なだけあってドアもそれなりに丈夫である。あとは自分が奴らを引きつけながら倒せば−−。
がしっ。
「しまっ…!」
安堵が油断に繋がった。足を掴む、化け物の強靱な腕。健治はそのまま引きずり倒される。
足に食い込む爪が痛い。だが奴らは引きちぎるつもりではないようだ。
手足を引き抜かれれば出血多量か、場合によればそれより早くショック死する。人間誰しもそこまで痛みに強くはない。
増してや女より男のが痛みへの耐性は弱い−−とかなんとか聞いたことがある。
「ぐぎゃぎゃ」
嘲るような声を上げて、化け物が健治の身体を仰向けにひっくり返す。その瞬間足を掴む手が離れた。
逃れようとしたが、すぐ様衝撃が来る。奴からすれば獲物を抑えつける為に胸の上に手を置いただけのつもりかもしれない。
だが、健治には息が止まるほどの痛みだった。肋骨が軋む。みしみしと音が鳴る。
「が…はっ…」
このままでは肋骨どころか肺まで潰される。そう思った瞬間、腕がどけられた。やっと息が吸える。健治は激しく咳き込む。
「げほっ…げほっげほっ…!」
しかし危機が去ったわけではない。化け物は健治の身体に馬乗りになると、左肩に手を添えた。
まさか、と思った瞬間、バギリと聞きたくもなかった音が身体の中で響く。
「ああああっ!」
肩を外されたではない。多分砕かれた。激痛に次ぐ激痛。痛みを発するだけの器官に成り下がった左腕はもうぴくりとも動かせない。
健治の悲鳴がまるで子守歌であるかのように、フローズブィニルトは心地よさげな声を上げる。
そしてそのまま、砕けた健治の左肩に食いついた。
−−こいつら、マジで…っ!
ただ食べる為じゃない。健治が苦しむのを見て楽しんでいる。
−−何で…何でこんなっ…!
元は人間だった筈だ。こいつらにだって理性と常識を備えた人間であった頃があった筈だ。きっと誰かの痛みに涙を流した瞬間があった筈なのだ。
それなのに。運命は人の手で強引に歪められ、ねじ曲げられた。人の苦痛に悦楽を感じる化け物へと変えられた。
悪魔の所業。それ以外になんて呼べばいい。そうしたのも他でもなく、ニンゲン。
許せない−−やりきれない。それはただ自分がまさしく壊されようとしているからだけが理由ではない。
それは一人の人間としての、純粋な怒り。そして、悲しみ。
「ああああっ!」
健治は自らの絶叫を、どこか遠いもののように聴いた。痛みと激情に染まる頭で知る。
まだ地獄は、始まったばかりだと。
第五十六話
少年
〜刃と、刃〜
個の子。