−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間倉庫。
何一つ、理解など出来なかった。理解したくなかった、が正しいかもしれない。今日という日まで太郎は普通の子供に過ぎなかった。
どちらかというと苛められっ子で泣き虫な、地味な子供だ。テレビの中のヒーローにはいつだって憧れていたけれど、同時に付随するは諦めの感情。
幼いながらに知ってしまっていた。自分はけしてヒーローにはなれない。世界を変えるのが、自分などではないことを。
−−実際、僕には何も出来なかった。
楽しい遠足だったのだ。好きなことをたくさんやって、めいいっぱい楽しんで。久しぶりに母と父に逢えると思うと、凄く嬉しくて嬉しくて。
だけど、待っていたのは悪夢だった。
玄関に転がっていたのは、父と母の死体。二人を食べていたのは、可愛がっていた愛犬のナナ。
太郎は一目散に逃げ出した。そう、文字通りただ逃げたのだ。これは夢に違いない。
自分はきっと怖い夢を見て魘されているだけの筈だと。時間が立てば醒めるものと信じて、ただ走った。残念ながらその瞬間はいつまで経っても訪れやしなかったけど。
お化けだらけになった町。どこに逃げればいいのかも解らなくなって、うずくまっていた時−−彼は自分の目の前に現れたのだ。
『おい、ガキ!』
金色の、ヒカリ。
『男なら、そんなとこでウジウジ泣いてんじゃねぇ!こっち来い!』
強引なまでに、引っ張りあげられた身体。闇に沈みかけた太郎の世界を切り裂いたのは、見知らぬ高校生。
『立て。立って走れ…生きてぇなら!』
善か悪かなど関係ない。太郎はあの時晴れた空の下、それでも土砂降りの黒い雨に濡れていたのだ。
そんな時救ってくれる人が現れたら。差し伸べられる手があったなら。どうして縋らずにいられるだろうか。
片瀬健治は文字通り、太郎にとって救世主だったのだ。助けてくれた彼は、その後もずっと自分を守り続けてくれた。
弟ぶって甘えても怒らなかった。頭を撫でてくれた。優しくしてくれた。−−太郎にとってはそれだけで充分だったのだ。
父と母が死んだこと。愛犬が二人を食べてしまったこと。町が化け物だらけになってしまったこと。
全部全部悲しくてたまらなかったが、それでも立っていられたのは健治がいたからなのだ。
彼に縋っている間は、ただの子供でいられた。悲しいことも怖いことも全部、忘れていられたのだ。
それは刷り込みに近い感情だったかもしれない。健治だってきっといい迷惑だ。
何より、自分という荷物があるだけで今までどれだけ迷惑をかけたか知れない。
それでも、自分を切り捨てずにいてくれる健治の優しさに−−自分の居場所を許してくれるのび太達に。甘えることを、やめられなかったのだ。
いつかこんな結果になることは目に見えていたのに。今更罪を悔いたところで、何もかもが遅いのに。
「ぐぁ…はっ…あああっ!」
太郎は鍵をかけた体制のまま。ドアの前から動けずにいた。
きっと健治は、もっとちゃんと隠れろと怒るだろう。でも太郎には出来なかった。ドアごしに聞こえていたから。
健治の喘ぐような悲鳴も、ぐちゃぐちゃと肉を掻き回すような音も、化け物達の狂喜に濁った声も。
「嫌だ…嫌だぁ…っ!」
太郎は頭を抱える。音も声も途切れない。骨を折られたのか、肉を抉られたのか、あるいはもっと恐ろしい目に遭わされてるのか。
太郎には今、健治がどんな風に化け物達の餌食にされているのか、想像さえつかない。
「誰か…誰か助けて…っ!」
耳を塞ぐ。塞いでも音が、消えない。泣いているような喘声も、血が噴き出す音も。
助けて。自分で呟いたその言葉に、太郎は死ぬほど絶望し、失望した。
大好きなヒーローが苦しんでいても、自分自身では何も出来ない。
出来ないと諦めて、他人をアテにしている。なんて浅ましく、恩知らずなのだろうか。
闇の中、うずくまり、太郎は嗚咽する。終わりのない生き地獄のようの時間の中、狂いそうな理性に縛られて。
−−西暦1995年8月、某所。
ダンッとモニターに手を叩きつけた。何故だ。何故こんな事になるんだ。
出来杉はブラックタイガーのせいで、洞窟から抜け出せない状態。“彼”−−セワシは魔女の前に、のび太達と共に足止めを食っている。
このままでは、同じ悲劇はまた繰り返される。
僕達は知っていた。廃旅館の大広間で健治が死ぬ運命にあることを。
しかし今までどうやって彼が死に、誰に殺されるかは殆ど分かっていなかったのだ。
のび太達とはぐれた健治と太郎は、大広間で見つかる。しかしその時は既に健治は上半身と下半身が泣き別れた無惨な死体に成り果てており、太郎は半ば精神崩壊を起こしている状態。
いつも、同じパターン。今までどうやってもその真相を暴き、死を回避するには至らなかった。
今回は。のび太達の働きもあって初めて事が明らかになったのだ。
自分達をこの奈落に突き落とした真犯人が誰なのかも。健治の死がその真犯人によって仕組まれたものだということも。
なのに。全部が分かっていて尚、自分達に止めることは出来ないというのか。
健治が死んだ後の運命は輪をかけて悲惨なものになる。のび太は絶望し、投げやりになり、周りの者達も次々心を折っていく。それはさながら転がる石のように。
のび太一人ならともかく。静香達まで不幸になるのはセワシの本意ではない。何より健治と太郎を救いたい。
だからのび太達を−−正確には健治と太郎を。大広間に近付けてはならないと、セワシ自らが足止めに向かったというのに−−。
「どうして…だよ…っ!」
僕は叫ぶ。金切り声で叫ぶ。
「どうして…っいつも裏切る!セワシ君は頑張った…何回も何十回も何百回も頑張り続けた!僕達は闘い続けた!!…なのにッ!!」
何故運命は彼を、僕達を裏切る?セワシと出来杉と僕。
たった三人で、血反吐を吐く想いで抗い続けてきたのに−−どうしていつもいつも、結果は僕達をあざ笑うのか。
願ったのは一つ。たった一つだけなのに。
「ふざけるな…ッ!」
僕なら健治を助けられるかもしれない。そう思っていたのに、魔女はそれすらもお見通しだったようだ。
大広間に張られた結界。それは異空間の転送を拒絶するもの。これでは、“どこでもドア”も使えない。
「くそっ…!!」
僕は武器をひっつかみ、隠れ家を飛び出した。今更遅いかもしれない。でも何かをせずにはいられない。
モニターでは、フローズヴィニルトによる健治の公開処刑−−否、拷問が続いている。
その弱っていく悲鳴が途切れた時、僕達の希望は潰えてしまう事になる。
−−西暦1995年8月、学校校舎・放送室。
スネ夫も、武も。何も言うことが出来ず、ただモニターを見つめていた。
スナッフビデオなんて都市伝説だと思っていたのに。まさか生放送を拝む羽目になるなんて誰が予想しただろう。しかも主演は大事な仲間なのだ。
「嘘だ」
スネ夫は思わず口に出していた。
「こんなの…嘘だ」
譫言のように。言い聞かせるように繰り返す。それが無意味な事くらい分かっていたが、どうにもならない。武もまた、それを咎める事はしなかった。
画面から目を背ける勇気さえない。耳を塞ぎたい衝動にかられながらも、身体は完全に凍りついて動かない。
『あ…ぁ…ぁ…』
健治の左肩は骨が露出し、ちぎれた筋が見えるまでに食われていた。フローズヴィニルトの頭が動く。
健治の胸元に埋まる。ぱっと新たな鮮血が飛び、血塗れの脚がもがくように動いた。
苦痛にのたうつその動きは生々しく、いっそ艶めかしいほどだ。胸に牙を立てられ、健治の身体が弓なりにのけぞった。見開かれた眼から涙が零れ落ちる。
その間に別の一体が、健治の左腕にしゃぶりついていた。
肉を一口かじっては租借し、舐めしゃぶりながらまたかじる。ご馳走を時間をかけて味わっている−−だけではあるまい。
どう見たってB.O.W達は健治が苦しむ事をわざとやって楽しんでいる。痛みが長引くよう急所を外し、ショック死どころか意識を失うことさえ許されない。
「何で…」
『ひぁぁっ!あ、かはっ…』
「何で、こんな…」
『ん、ぐ……あぁ!!ぐぁあああっ』
「何で健治さんがこんな目に遭ってんだ…こんな目に遭わなきゃなんねぇんだよ…っ!!」
武が頭をかきむしって叫ぶ。健治の悲鳴を聞きながら、気が狂いそうになる己と戦いながら。
それはスネ夫も同じだ。確かに自分達は誰しもいつ死んでもおかしくない状況にあった。生き抜く決意はしたものの、ゾンビ達の群を前にいつも絶望とは隣り合わせで。
自分が、誰かが死ぬ時が来るかもしれない。それもまた覚悟はしていた事なのだ。
だが。誰が予想するだろう?ただ死ぬだけじゃない。人間の悪意によって嵌められ、仲間がなぶり殺しにされていく様を延々と見せられる羽目になるなんて。
人間の尊厳を、誇りを踏みにじる事を強姦と呼ぶなら。今の健治はまさしく魔女の手によって陵辱されているにも等しい。
辱められながら、激痛と悪夢の中で死を迎え。ウイルスによってまた醜い姿で蘇り、いずれ仲間達を襲う。こんな惨たらしい最期があっていいのか。こんな真似が赦されていいのか。
そして今現在進行形で壊されているのは健治だけではない。
健治が“公開レイプ”されている映像を見せられている自分達、その悲鳴を間近で聴かされているだろう太郎、その様が分かっていながら助けに行けずにいるのび太達
−−全員の魂が今、陵辱され続けている。アルルネシアはそんな自分達を想像して、快楽に高笑っているのだ。
「…もう我慢できねぇっ!」
「ジャイアンっ!?」
グレードランチャーを掴み、武が放送室を出ていこうとする。慌てて呼び止めると、射殺さんばからに睨まれた。
「ここからじゃ今から行っても間に合わねぇかもしれない事くらい、分かってらぁ!
でも…仲間があんな酷ぇ目に遭わされてんのに、黙って見てるなんてできねーよ!」
そのままもの凄い勢いで飛び出していってしまった。スネ夫は呆然とその背を見送る。
−−僕だって…僕だって同じだよ、ジャイアン。
悔しくて悔しくて悲しくて悲しくて。握りしめすぎた拳には爪が食い込み、皮膚を破る。
−−だけど…僕はそこまで…正直になれないんだよ…。
理性より感情を優先させられる武が、スネ夫は羨ましくて仕方なかった。
臆病で現実的な自分の性格を、今ほど呪ったことはない。今からではどんなに走っても、旅館に着く頃には全てが終わっているだろう。
「何…してるんだよドラえもん」
不満と不安が、押し殺した喉から漏れる。
「こんな時くらい都合よく来て…どこでもドアくらい、出してくれたっていいじゃんか…」
もう無茶な事は言わない。自分にできることまで甘えたりしないから。
「助けて…くれよぉ…っ!」
スネ夫の心の叫びを、聞き届ける者は、いなかった。
第五十七話
救世主
〜優しい、手〜
無の名。