−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間。
死ぬのだろうか、自分は。
全身を激痛が苛むとはいえ、さすがに出血で頭が回らなくなってきた。
健治は勝手に声を上げる喉と跳ねる身体を他人のそれのように見つめながら思う。さすがにこうも長く弄ばれる羽目になろうとは、と。
いや。もしかしたら自分がそう感じているだけで、実際は大した時間ではないのかもしれない。
確かなのは、思っていたほど死は簡単には訪れてくれないという事だ。
そろそろ痛みで頭がイカレそうで、どこか現実逃避を始めている。
冷静に、冷淡に。補食という名の陵辱を続けられる己を見つめている自分がいる。
あちこち肉を食いちぎられた左腕は、もはやどこも血まみれで、まるで鍬で耕されたような有様だ。
もう少し上品に綺麗に食えばいいものを、これではまるで虫に食われた障子もいいところ。
胸と腹に気紛れに噛みつき血を啜られた結果、多分鎖骨や肋骨の一部は剥き出しになっているのだろうと思う。
さっき派手に血を吐いたから、内臓も一部やられている。にも関わらず健治がまだ息をしているのは、奴らが肺や心臓に手をつけないからだ。
頭や顔に至ってはほぼ無傷。ひょっとしたらこれも魔女の指示なのだろうか。
−−俺の人生って、何だったんだろうなあ…。
よくドラマで死にそうな奴が言ってたりする。こんな事の為に生まれてきたんじゃないとか、こんな死に方をする為に生まれてきたのか−−と。
あそこまで派手に悲劇的な感情はないが。ぼんやりと今、似たようなことを思っている。
物心ついた時から。誰にも守られる事のない人生だった。
支えてくれる人たちはいたし、あんな両親でもいないよりはマシだったと思うけれど。
気がついたら世界はそんな風に動いていて、健治が寂しさを感じる暇さえ無かったのだ。
誰かに傍にいて欲しかった。自分を裏切らず、ただ隣にいてくれるなら誰だっていい。
その誰かの為になら何だって出来る自分を、幼いうちから理解していた。それは紛れもない、愛されたい欲求の裏返しだったのに。
究極のエゴイスト。ある意味最悪の偽善者。自分の今までの行動は全て自分の為だ。
家族の為に、友達の為に。そんなスタンスは建て前だけと知っていた。知っていながら自分の欲求の為、周りに押し付け続けていたことは否定出来ない。
出来ることなら、彼女の一人くらい欲しかったなあと思う。
選り好みしすぎたのは自分だし(自分で言うのも何だが、告白された数はかなり多いのだ)もしそんな存在がいたら今頃未練で発狂しそうになっただろうけど。
どうせ死ぬなら、もっとやりたい放題に生きてしまえば良かった気がする。
−−まあ…別にいいのかもな。このまま死んだって。
そうすれば、捨てられるだろうか。こんな汚くて醜い心を。
うだうだ悩むしかない人生を。もはや痛みしか感じない身体を。縛っていた、ありとあらゆる鎖を。
−−俺が死んだって…それで誰かが悲しんだって。そんなの所詮、一瞬だ。
誰かに本気で愛されたことなんてある筈がない。悲しんでもすぐ忘れられる。
そっちの方が気が楽だ。だったらもう−−放棄すればいい。その方が、きっといい。
健治は諦めようとしていた。意識が落ちる。闇に、飲まれる。ああもう何も、聴こえな−−。
「聴こえないの?」
はっと顔を上げる。いつの間にか、健治の身体は闇の中に浮いていた。
身体の痛みも傷も消えている。動かない筈の腕が動く。ああこれは、夢なのか。死に際に奇妙な夢を見ているのか。
「聴こえないの?」
さっきと同じ声がまた。健治が見れば目の前の闇に、子供が一人立っていた。
緑色の髪をポニーテールにした子供。女の子かと思ったが、よく聞けば声が少し低い。
誰なんだ、と。口にしようとしたが、うまく声が出なかった。代わりにその見知らぬ少年が言う。
「駄目だよ、聴いて。君は聴かなければいけない。耳をすませば、聴こえる筈だ」
何を、と思った。その途端聴覚が子供の泣き声を拾う。
ズキリ、と胸が痛くなった。聴きたくない。妹と弟の。自分の。幼い泣き声が重なり、また心を抉る。耳を塞ごうとした健治に、少年の声が飛んだ。
「駄目!お願い、聴いて!!俺には、君にそれを聴いてもらうことしかできない…。
結界の中じゃ、俺は君の夢にしか渡れないんだ。君を直接、助けてはあげられない」
何の話かさっぱり分からない。それでも彼の泣きそうな声が、胸に迫る。
「君は奇跡の魔術師。限りなくゼロに近い可能性でも…本気で願えばいくらでもひっくり返せる。それが君の力なんだ」
何を言ってるのか。魔術師?自分は普通の高校生にすぎないのに。
しかし健治の手は耳から離れていた。再び泣き声が頭を揺さぶる。しかし今度はそれだけではなかった。
少年の向こうに、ドアが見える。泣き声はその向こうから聴こえてくる。
あれはそう−−大広間の、用具倉庫のドア。そう思った時、やっと至る。ああ、あれは太郎の泣き声。しかもただ泣いてるわけではなくて。
『ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…っ』
謝っている。泣きながら、延々と。
『いい子になります…もう逃げません…悪いこと、しません…もう甘えたりしません…だから』
突き刺さる、真実。
『だから……健治兄ちゃんを助けて……お願い、神様』
何も−−言うことが出来なかった。太郎が己を責めている。健治を助けにいけない自分を咎め、懺悔し、祈っている。
それ自体は予測していた筈だったのに−−直接声を聴いてしまったら、もう駄目だった。
たとえ一過性のものでも。すぐ枯れる涙だとしても。
これ以上泣かせるのは嫌だと−−そう思って、しまった。
「一時的?…君は随分酷いことを言う」
少年が苦笑する。
「君は分かってる筈だよ。君がこのまま死んだら…あの子は一生その傷を背負う。いや…太郎君だけじゃない。君の仲間達…みんなが」
そんな価値なんてないのに、と。健治は俯く。確かにあの子達は優しい。
馬鹿みたいに優しくて、純粋だ。だけどそれは自分の本性を知らないから言ってるんであって−−ああ。本性をさらけ出す勇気なんかないのに何を考えてるんだか。
「価値があるかどうか…決められるのは君だけじゃない。少なくともあの子達がそう思ってるなら…それが真実なんじゃないかな」
真実。彼らがそう決めるならば−−それが。
「君はもっと…自分の為に頑張っていいと思うよ。だって…君が好きな仲間がたくさんいるんだもの」
まあ理由なんて何だっていいさ。少年はそう言って笑った。
「ほんのちょっとでいい。…あの子達が大事ならあの子達の為に。
あの子達に…世界には絶望だけじゃないってことを教えてあげて。君になら奇跡が起こせる。絶対に」
自分になら?
「この馬鹿げた運命に、風穴を。…ほんの小さな穴だっていいからさ」
あの歌の歌詞にあったように。魔女の描いたくだらないシナリオを−−打ち壊すことが出来るだろうか。
こんな自分でも、誰かが望んでくれるのなら。
「…分かったよ、緑川リュウジ」
やっと声が、出た。健治は何故かその少年が、聖奈の探し人だと分かった。
「…足掻いてやる。最期まで…あいつを泣き止ませる為だ。仕方ねぇ」
闇が弾ける。現実は唐突に戻ってきた。全身を苛む痛みも、重い身体も、身体の上にのしかかる化け物も。
もしかしたら今のは健治が見た都合の良い夢に過ぎないのかもしれない。
緑川リュウジの姿を纏って現れたのは、健治の単なる願望に過ぎなかったのかもしれない。
切断寸前の有様である左腕と、穴だらけになった肩や胸と、まるで愛でるようなフローズブィニルトの舌と牙。そして、体の下に広がる、絨毯にも吸いきれない生ぬるい赤い海。
これが現実だ。健治は今まさに、奴らの手で息を止めようとしている。
否、止まっていた筈だ。あのまま諦めて、自分が闇に飲まれていたら。
−−そっちのが幸せだったのかもしれねぇな。
そうしたらまた、痛みに喘がされる事もなく、楽に死ねたかもしれない。でもそれは、自分の代わりに仲間達に同じだけの苦痛を背負わせること。
太郎が未来永劫泣き暮らすかもしれないこと。それはきっと、死ぬより辛い痛みの筈だ。
「…諦めて、たまるか…」
左腕はまったく動かない。しかし、幸い脚はまだ動く。
右腕も無事だ。胸と腹の傷は深いが、今ならまだギリギリ間に合う筈だ。
一撃でも。一瞬でも。ひっくり返せる未来があるというなら。
−−アルルネシアとやら。お前は俺を、奇跡の魔術師と呼んだな。
ならば見せてやろうじゃないか。力のない人間なりに、人間だからこその奇跡を。
特別な魔法なんて要らない。ただ意志の力があればいい。
「運命とやらに風穴を…」
伸ばした右手が何かに触れた。刀だ。思いのほか近くに落ちていたらしい。そしてポケットには堅い感触。そうだ、自分には切り札があったのだ。
化け物が健治の腹に顔を埋める。牙が肉を裂き、傷口を広げる。
このまま腸をまで食われたらさすがにもう動けない。ただでさえ出血量がもうレッドゾーンだ。激痛と一緒に寒気までしてきた。時間が、ない。
健治は刀を掴んだ。そして。
「うわあああああああっ!」
肉を食らうべく口を開けた化け物の、その開いた口の中に−−刀をねじ込んだ。
「グギャアアアア!!」
刃はフローズブィニルトの喉を貫通する。血反吐を吐きながら化け物が絶叫した。
そのまま健治は力任せに刀を横に引く。腕に食い込む牙が痛いが、このチャンスを逃せば後はない。
喉から口まで。刃で引き裂かれたフローズブィニルトが、もんどりうって倒れた。
体がビクビクと痙攣している。まだ死にはしないだろうが、すぐには動けないだろう。
「ぐあ、ぁ…っ!く…」
精神力の限りを尽くして、身を起こす健治。痛いなんてもんじゃない。吐き気がしそうだと思った次の瞬間、血反吐を大量に吐き散らしていた。
腸を食われる前だったとはいえ、打撃やら何やらででだいぶ中にダメージを受けている。このままの状態でも、放っておけば死ぬのは明白だろう。
だがまだやる事が残っている。健治は無事な右手に力をこめ、ふらつきながらも立ち上がった。
無事なフローズブィニルトはあと二体。奴らの体は堅い−−だが、一時的にでも動きを止められたら充分だ。
−−奴らを誘導して一カ所に集め、動きを止める。そしたらあとはまとめてぶっ飛ばすだけだ。
『手榴弾…マジかよ』
『ピン抜かないように気をつけてね。シャレにならないから☆』
廃旅館に至るまでのエレベーター。その前の戦闘で、アンブレラの元傭兵と思しきゾンビからかっぱらった手榴弾。危険な代物だが使うなら今しかない。
−−見せてやる。希望を。
奇跡を、起こす。そして皆に希望を託すのだ。安雄がそうしてのび太を守りきったように。
第五十八話
奇跡
〜跳ね返すは呪いの鎖〜
零の調律。