−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間。
室内で響いた爆発音と砂塵に、静香は混乱させられる。しかしすぐ思い出した。そういえば、健治はヒロトから手榴弾を渡されていたのではなかったか?
「見事ね。敵であるB.O.W達を逆手に取るなんて。流石宿命の魔術師と呼ぶべきかしら」
はっとして振り返る。部屋の外で、くすくすと嗤うアルルネシアの姿が見えた。その魔女の前に立ち、のび太が怒りを滲ませて言う。
「お前だけは、赦さない」
初めて見る。激情に任せるでもなく、泣き狂うでもない−−それでいてそれらより遙かで重く深い、こんな憤怒を見せる、のび太を。
「…誰かの幸せを好んで土足で踏み荒らす。踏みにじる。…誰がお前にそんな権利を赦した?…ふざけんじゃねぇよ」
殺意を越えた殺意。激しい怒声を浴びせているわけでもないし、何より静香に向けた言葉でもないのに−−こんなにも背筋が凍る。
のび太の顔が見れない。怖い。こんなこと、本当に初めてだった。
「【お前がそうして欲しいって言うなら、僕達は絶対にそれをしない。…折れるもんなら折ってみろ。人間をナメるな…魔女】」
本当にのび太なのか?その声も、口調も−−力に満ちた言葉も。まるで別の、得体の知れない何かが乗り移ったかのようではないか。
赤い言葉の槍が、魔女の周りに突き刺さる。アルルネシアは涼しい顔だ。それが牽制球だと分かっていると言わんばかりに。
「…もう赤き真実が…魔術師の力が使えるなんてね。面白いわ。いいでしょう…今は退いてあげる。
既に結界は破られたし…何もかも間に合ったわけじゃあないものねぇ」
「……ッ!!」
ニタァ、とアルルネシアが嗤う。本当に、吐き気のしそうな笑みだ。信じられない。信じたくない。
こいつが嗤うだけで分かるのだ−−この女が悪意と狂気と欲望の塊でしかないと。
その為にいくらでも常識を破り、理性も善意もハイヒールで踏みにじり、真実に汚濁を吐きかけることが。
目を見るどころか、声を聞くのさえ苦痛で堪らない。女の悪意に浸食されてしまいそうな気がしてならない。
こんな存在がどうしてこの世にいるのか。存在することを、赦されているのか。
「見物させて貰うわよ。絶望の奈落に、その果てに貴方達がいつまで立っていられるかをね…きゃはひははははひひひぃぃぃ!!」
奇怪な高笑いと悪意を残し、アルルネシアの姿は消えた。何もかもに間に合っていない−−その言葉にはっとする。
そうだ。早く健治と太郎を助けなければ。その為に苦労して扉を破ったのではないか。
「健治さんっ!太郎君っ!」
静香は砂塵から顔を守りながら、必死で室内を進む。足下で石や破片がごろごろしている。
手榴弾だけにここまでの威力は無かっただろうから、それ以前にまず戦いが激しかったのだろう。
霞が緩やかに室外へ流れ出し、晴れていく。部屋の中心に、倒れている人影を見つけた。
制服の白いシャツに金色の髪。背を向けているが間違いない。健治だ。
「健治さ…!!」
駆け寄り、健治に近付いて−−静香は絶句する。彼のシャツの胸側は、あちこちが大きく裂かれていた。
無論シャツだけではない。健治の身体ごと、引き裂かれている。
肉をところどころちぎられた左腕にはもう、肌の色が殆ど残っていない。血肉の赤と、骨の白。映画ですら滅多に見ないような、壮絶な有様だった。
左腕だけではない。露出した左の鎖骨、肋骨の一部。内臓が見えそうなほど肉を食いちぎられている腹に、胸の大きな刺し傷。
本当ならとっくにショック死していたに違いない傷。健治がまだ生きているのは、奇跡以外の何物でもない。
−−酷い…酷い!!まだ生きてる相手に、生きたまま…こんな、こんな!!
どんな拷問に、陵辱に耐えればこのような有様になるのだろうか。健治の顔が綺麗なままだから尚更グロテスクさをひきたてていた。
死体ではないのだ。痛みは生き地獄と呼んでさしつかえないものであるだろうに!
「のび太ぁ!静香ちゃん!ヒロトさんっ!」
「た…武さん!?」
絶句していた静香の耳に、本来ならばここにいる筈のない人間の声が届いた。
ランチャーを背負った武が廊下からこちらに走ってくる。彼はスネ夫と一緒に放送室の防衛係になった筈。それが何故ここに?しかもたった一人で?
「悪ぃ。我慢できなくて飛び出してきちまった。…なんか無駄足だったっぽいけど」
静香の前に横たわる瀕死の健治を見て、武が顔を歪める。
「俺とスネ夫は…放送室だったからさ。モニターで全部様子が見えたんだ。健治さんが電気つけてからは、大広間の様子も見えてて…」
そうか。理解が追いつき、静香は唇を噛み締める。拷問にあっていたのは健治本人だけではない。
その姿を延々と映像で見せられていた武達にとっても、十二分なほどの恐怖だったのだろう。
もう少し。もう少し早く大広間に突入できていれば。自分にその力があったなら。今更そんなふうに己の無力を悔いても仕方ない。
「健治さん…気休めかもしれないけど…待ってて。簡単な応急処置ならできるわ…っ!」
気休めも気休めだ。骨が見えるほどの傷に、内臓までダメージがいっているであろう人に。包帯と消毒薬レベルで何が出来るというのか。
それでも静香は言った。慰めだとしても、無意味だとしても−−健治に死んで欲しくなかったから。
「た…は……」
「え?」
「たろう…は…」
健治がうっすらと目を開け、掠れた声ど言う。まだ意識があって声が出せるなんて−−どんな精神力なのか。しかも。
「太郎が……倉庫、に…」
この期に及んでまだ人のことを気にするなんて。
「倉庫…あそこか」
ヒロトが走っていく。扉の脇、清掃用具や椅子を収納する用具倉庫だ。健治はB.O.Wにやられながらも、あの中に太郎を隠したのか。
鍵をかけたのだろう。ドアが開かなかったので、ヒロトがノックする。
「俺だよ、開けて!」
「ヒロト…さん?」
「もう大丈夫、怪物はいなくなったから」
すぐにがちゃりと音がして、太郎が顔を出す。泣きはらした顔で、不安そうにヒロトを見上げる。
「健治兄ちゃんは…健治兄ちゃんは無事?死んじゃったりしてないよね」
「…生きてるよ」
ヒロトは少しだけ目を伏せてそう言った。嘘ではない。生きてはいる−−今は、まだ。
しかしここにいる誰もが理解していた。魔女が言った通りだ。自分達はけして間に合ってなどない。
あの傷で、出血で−−設備のないこんな場所で。健治が助かる筈はないということを。
「…フローズブィニルト…三体も。まさか健治さんが一人で…?」
のび太が、壁際でぐちゃぐちゃになっている三体のB.O.Wの死体を見て言った。
静香も気付き、驚く。頭が消し飛び、そればかりか下半身が辛うじて残るばかりね死骸だったが、確かに三つ確認できる。
連携プレーの出来る、あんな厄介な敵を、銃さえ持たない健治が一人で倒してしまうなんて。その上で太郎を守りきるなんて。
「…人間…やればなんとかなる、もんだな」
健治が苦痛の中で笑う。静香は思った。この人は。いや、この人こそ。
勇者だ。エゴイスティックで無駄に優しい−−ゲームや漫画の中ではない、等身大の、英雄。
理解した途端、泣きたくなった。今まで泣かなかったのが不思議なくらいだ。何故こんなに強い人が、こんな形で死ななければならないのだろう?
「健治兄ちゃん…!」
太郎が駆け寄ってくる。目にいっぱい涙を溜めて、血の海に沈む健治に縋る。
「健治兄ちゃん…っお願い、死んじゃやだ…やだようっ!」
「太郎…」
「太郎君、だめよ、揺らしたら…!」
「ううう、うううううっ!!」
パニックのまま、泣き叫ぶまま、健治の体を揺すろうとする太郎をなんとか引き剥がす。
太郎は渾身の力で暴れたが、彼はのび太より非力なのだ。静香の手から逃れる術はない。それだけに、非力な抵抗と声が全員の胸をかきむしる。
何故こんなことになったんだろう。いや、いつかこんな時が来るかもしれないと誰もが覚悟をしていたのだ。
していた筈だったのだ。そもそも安雄が死んだ時点で思い知ったのではないか。
それなのに−−誰もが動揺を抑えられないのは。ひとえに、無意識のうちに目を背けていたからに他ならない。
この絵に描いたような悲劇から。絶望しかない現実から。
「…お前らに、頼みがあるんだけど…いいかな」
「…何、健治さん」
「…一発、俺にくれねぇかな」
一発。何を、と。問うまでもない。健治の目が見ているのは、のび太の手に握られた銃だ。
「…ここまで派手にやられたんだ。俺はとっくにウイルスに感染してるだろうな。
潜伏期間を考えりゃ、体に痒みや不快感が出るまでに個人差は…あるし。本来ならそれまでは諦めないで待てたかも…しれねぇ、けど」
何が言いたいかなど、訊くまでもない。なのに彼は残酷に最後まで言おうとする。
「…見ての通り。多分発症より、死ぬのが早ぇ」
事実が。
現実が。
静香を、仲間達を切り裂く。
「でもって…予想だが。死んだらアンデット化はすぐ…な可能性が高い。だから…」
「…それしか」
静香はその言葉を遮るように口を開く。
「それしか…無いの?」
短い、一日にも満たない付き合いだった。きっとこの事件が起きなければ、静香が健治と出会うことはなかっただろう。
小学生と高校生という年齢差もあるし、何より今まで歩んできた道のりが違いすぎる。恐らく彼は口で語った以上に、重い何かを背負ってそこに、いる。
全てが理解できる筈もなく、理解できるなどと口にするだけでもおこがましいだろう。
それでも静香は、理解したかった。理解したい、知りたいという気持ちは捨てられなかった。短い時間でも自分達は確かに仲間だったのだから。
何より。
「…嫌」
『…何で、こんな無茶をやった』
「そんなの、嫌…嫌よ…!」
『お前の無謀な行動のせいで!お前だけじゃなくてのび太まで死ぬところだったんだぞ!ふざけんな!!』
「約束したじゃない…みんなで一緒に帰るって!」
『みんなで生きて帰る。俺達に約束させたのはお前だろ』
「無茶をしたあたしを…叱ってくれたの、健治さんでしょ?」
『本当に…無事で良かった』
「諦めないでよ…!頑張って生きてよ…っあたしに出来ることなら何だってするから…するから!!」
大切なことを教えてくれた。心から心配して叱ってくれた。いつの間にか彼の存在に安堵し、支えになっていた自分がいた。
のび太を守りたいと、走りがちになる自分にブレーキをかけつつ−−背中を押してくれた。
安雄の時より深刻な状況なのだ。もう時間の猶予はないことくらい分かっている。無茶を言って困らせたいわけじゃないのに、一度決壊した涙は止まらない。
膝をつき泣きじゃくる静香の頬に。健治の手が、触れた。
「何でもしてくれるってなら…」
手は冷たいのに、声は温かい。
「お願い…聞いてくれよ。静香」
第六十話
勇者
〜願い事、一つだけ〜
あなたがいきた、あかし。