−−西暦1995年8月、学校校舎・保健室。
「人は、どうして死ぬんでしょう」
聖奈はぽつりと呟く。
「悲しいだけなのに。…辛い、だけなのに」
金田は何も言えず、押し黙る。沈黙の保健室で、聖奈と二人。
インカムごしに、全てを聴いていた。だから、分かっていた。廃旅館で今まさに、何が起きているのかを。
『…生きてる理由とか、実のところ本当に生きたくて生きてんのかも、ハッキリ言って分かんねぇ。偶に考えてみるけど、ずっと宙ぶらりんなんだよな』
何故こんな酷い状況でまだ、生きようと思えるのか。そう尋ねた金田に、健治が言ってきた言葉を思い出す。
生きたいかなんて自分でもよく分からない。彼はそう笑った。
『でも……死ぬのはいつだって出来るだろ。半端なところで死んだら何か後悔する気がしてる。
少なくとも…俺が死んだことで守れねぇかもしれない奴がいるのに…くたばったりしたら、寝覚め悪ぃじゃねぇか』
死ぬのはいつでも出来る。いつだって死ねるから生きてる。
なるほど、それもまた逆転の発想かもしれない。
死にたいと思う時もあるから−−死という一度きりのご褒美をお預けにする。
生という苦い汁を啜っておく。そういう捉え方もできるのではないだろうか。
『だから多分、生きてる。…いいじゃん。生きたいから生きるんだ。理由なんかどう繕ったってこじつけだろ』
そして。何でもいいから生きていたいと願うのは−−間違いでも罪でもないと。彼はそう、言った。
一体どんな経験をすれば、そんな風に割り切れるようになるのだろう。そうやって納得出来るのだろう。それまでどんな風に悩んで、生きてきたのだろうか。
子供としての純粋さと、大人のような達観した価値観。両方を兼ね備えた、優しい少年だった。
短い付き合いの金田さえ思ったのだ。彼がどんな大人になるか、どうやって世間の役に立っていくか見てみたい−−と。
そうだ。彼こそが生き残るべき人間だった筈なのだ。それなのに。
−−せめてもっと…健治君と話をしておくべきだった。
彼の些細な言葉に、力を貰えたから。その恩だけでも返しておきたかった。下らない意地やプライドで彼らと距離を置いたが為に、自分は今一生分の後悔をしようとしている。
そんなもの、何の役にも立たないのに。ある年になった男は、どうにも抱え込む奴が多いらしい。金田はその典型だったのだろう。自覚はあるのだ、これでも。
世界は、残酷だ。自分のような見窄らしく愚かな男がまだ生きているのに、有望で誠実な少年の命が今刈り取られようとしている。
神なんてものがいるなら−−何故こんな仕打ちをするのかと小一時間は問い詰めてやりたいところだ。
世界は平等なんかじゃない。そんなもの、どこかのペテン師の常套句でしかない。
「…人間の生とはつまり、死ぬ為の過程だ。…前にそんなことを言っていた奴がいたな」
金田は口を開く。
「生き物はいつか必ず死ぬ。それが自然で、当たり前なことだ。
…そう思って、私は割り切ってきた。医者だから尚更だ。終わる命にいちいち問いかけてたらどうにもならん」
全てを嘆いた結果、心を壊してしまう医者は後を絶たない。だから金田は、諦めることにしたのだ。
人は死ぬ。それが当たり前。そう決めつけてしまえばそこで思考を止めることができる。“常識”とは、なんと都合のいい概念か。
「だがな。…今、なんとなく……分かった気がするんだ」
それなのに今、自分は考えている。金田は初めて、逃げずに死の意味と向き合っている。それはきっと、健治の言葉があったから。
「人は、生きる為に死ぬんだよ」
生きるとは、何か。
「もし誰もいなくならない世界だったら、人の心に悲しみはなかったかもしれん。
悲しみが無ければ…他人に優しくする気持ちも生まれたか怪しい。
死者は生きる人間に必ず何かを残し、教える。我々が死者を慰めるのではなく…死者が我々に何かを…未来を、想いを遺すのだ」
その裏にある、死とは何か。
「悲しいだけかもしれんが、その悲しみにも意味があり価値がある。…だから死は、我々に寄り添うんじゃないかね」
考えようと思う。あとどれだけ生きられるか分からないけれど。考えて、見つけたい。否、見つけなければならない。
健治が死ぬ意味を。彼が遺すものを。その果てに、自分達がどのように生き抜くのかを。
「…生きる為の…死」
俯いていた聖奈が顔を上げる。その唇は震え、眼には涙が溢れていた。彼女もまた優しい子だ。だからこそ、乗り越えなくてはならないのだろう。
人の死を無駄にするも生かすも自分達次第。何故なら世界は本来、今を生きる者達の為に巡るのだから。
「…いつか逢えるって。お父さんお母さんにも安雄君にも…健治さんにも。いつかまた必ず逢える筈だって信じて…私、頑張ります」
慟哭。それはただ絶望だけではない。絶望だけであってはならない。
「それまで…精一杯生きます。でも…」
顔を覆い、聖奈は嗚咽を漏らす。
「悲しんだっていいんですよね…悲しむから…優しくなれるんですもの」
金田は眼を閉じ、息を吐いた。何か言おうとした筈だが、無理だった。視界が滲む。胸の奥から感情が突き上げる。
自分は今泣くべきではない。しかし、言葉にすればもう、いい年をした男なのに声を上げて泣いてしまいそうだった。
生きる為の死。当たり前の死。理解していても、本当は誰もが願っている。
大切な人が。自分が。誰も死なない世界が欲しい、と。
−−西暦1995年8月、廃旅館・大広間。
恐らく、最善な選択と最悪な選択は表裏一体なのだ。誰かにとっての最善が、他の者にとってそうだとは限らないように。
誰もが自らを正義と語り、有りもしない悪を作り上げるように。誰かの正義を、悪だと言って否定するように。
シュレディンガーの猫箱。真実が一つきりではないように。
「静香。お前は…俺に言ったよな」
健治は、残された時間の中で選択する。以前安雄が通ったのと同じ岐路。同じ道に今自分もまた立っているのだ。
彼もきっとこんな気持ちだったに違いない。自分に何が出来るか。どう生き抜くか。考えて考えて−−至ったのだ、その境地に。
「みんなで生きて、幸せになろうと」
『健治さんも、生きて。あたし達みんなと一緒に、幸せになろうよ』
「その中に俺を加えてくれるって…そう言った」
幸せって何なのか。どうすれば幸せになれるのか。自分は無意識に答えを探し続けてきて、しかし見つけられずにいたように思う。
今まで誰かに守ってもらうことも無かったから。
誰かに縋れば、弱みを見せれば、暴力を持って否定されるだけ。それは父親であったり、心無いクラスメートであったりしたが、根本は変わらない。
誰かの幸せを妬む気にならなかったのは、健治の心が綺麗だったからじゃない。
逆だ。汚れすぎて諦めたからだ。あいつらは別のセカイの住人。だから“仕方ない”。羨む意味すら、ないと。
だから、人の幸せを願う“フリ”をしてきた。それが自分の幸せだと思い込もうとした。
少なくとも、誰かに望んで貰えなかった哀れな自分を忘れるくらいはできたから。
ドロドロに溶けた、ヘドロまみれのエゴイスト。笑った仮面をつけていても、中身は空っぽなまま。
だけど。
のび太達と出逢って、やっと救われた気がしたのだ。出逢ったばかりの自分を仲間に加えてくれただけじゃない。
のび太は、こんな自分もまた“友達”であり無条件で信じるに値すると言ってくれた。静香は健治の幸せを、今まで誰にも願って貰えなかった未来を、望んでくれると言ってくれた。
太郎も。こんな自分を好きになってくれた。自分の為に泣いて、生きていて欲しいとそう言ってくれた。
「…短い時間だけどよ…俺は、俺なりに…生き抜いたつもりだぜ。安雄が何を考えてたか、今なら分かる気がするんだよな」
静香の顔がくしゃりと歪む。健治は続けた。
「俺は…幸せになったぜ。お前らと出逢って幸せに気付けた。…静香のお陰だよ。だから…約束は破ってねぇ」
ありがとう。
幸せに、してくれて。
「だから次は、お前らが約束…守ってくれよ。俺が言ったこと、忘れてねぇだろうな?」
『でもお前が一番優しさを向けるべきは俺じゃない。…お前は何があっても、のび太の味方でいてやってくれよ』
「お前は…お前だけは何があってものび太を裏切るんじゃねぇぞ」
『あいつは…こんな所で死んでいい奴じゃない。…あいつは光だ。俺達全員にとってな。お前が無茶なんかしないでのび太を守ってくれるなら、俺がお前らを守ってやる』
「守ってくれ。俺の分まで…最期まで」
無茶苦茶だ。暴論だ。自分は約束を守ってなんかない。そもそもこれからの未来で、彼らを守ってやることができくなってしまった。
最低だ。それなのに自分は今、約束を守れたことにして−−彼女達に無理矢理前を向かせようとしている。
どんなに“最低”でも。少なくともそれが、健治にとっては“最善”である筈だから。
「太郎」
まだしくしく泣いている太郎に、健治はまだ動く手で頭に触れる。彼を撫でてやれるのも、これが最期だ。
意識がもう持ってかれそうになっている。痛みを痛みと認知できなくなりつつある。
「泣いてもいいけど、いつまでも…立ち止まってるだけじゃ駄目だ。男だろ」
太郎はまだ泣きじゃくっている。言わなければならない。残酷でも、非情でも。
「これからはもう、守ってやれない。自分の身は自分で守れ」
かつて。突き放すことも庇うことも出来なかった弟と妹。彼らには言えなかったこと。
言えずに後悔したことを今、太郎に言う。
「んでもって…出来れば、胸を張って誰かを守れる男になれ。そうしたら、いつかまた逢えた時…いっぱい誉めてやる。お前の親父とお袋と一緒にな」
「また…逢えるの?死んだら、同じところに行けるから?」
「そう信じてるぜ。…ただし、あんま早く来たらブン殴るから覚悟しとけよ」
ほんの少し、太郎の瞳に光が戻ってくる。健治は微笑み、ポケットからそれを取り出した。
のび太から預かっていた楽譜だ。あの時はもう一度弾く気があったが、もう出来そうにはないから。
持ち主に返そう。これはきっと−−のび太の為の歌になる。
「のび太。これ…持っておけよ」
劇鉄を起こしたまま、動きを止めていたのび太に、健治は楽譜を渡す。
「お前は自分を…見失うなよ。俺が言ったこと覚えとけ…。お前は、みんなを幸せにできる奴なんだからよ」
「健治さ…」
「ありがとな。…俺をお前の“友達”にしてくれて」
さようなら、世界。
眼を閉じる。残酷だけど、とても素敵な世界だった。
「う…ぅ…ああああああっ!」
のび太が絶叫する。引き金に、力が込められ−−銃声とともに、終わりを告げる。
どうか彼らの天国が遠いものであるように。健治は最期まで、そう願っていた。
第六十一話
健治
〜ファイナル・ヘブン〜
ここにいた、あかし。