世界は闇へ還る。終わりこそ必然と言わんばかりに。

 残酷に、残酷に−−ただ事実だけを突きつける。

 

「…今はここで退いてあげる。セワシ君も疲れているみたいだからね」

 

 ドラえもんの声を、のび太はただ遠くに聞いた。聞きたくないと願っても、音は勝手に鼓膜を揺さぶる。

 

「でも次に出逢う時は容赦しない。セワシ君か……僕が。必ず君を殺す。覚悟しておくんだね」

 

 殺す。まさかドラえもんの口から、そんな言葉を耳にすることになるだなんて。

なんてタチの悪い悪夢だ。なんて最悪な−−現実なんだ。

 目が覚めたら。全て無かったことになっていたら、どんなにいいだろう。

 

「待って」

 

 セワシと共に去っていこうとするドラえもんを、ヒロトが呼び止める。

 

「…君が22世紀のロボットじゃないこと。君を作ったのはセワシ君で、君はそのセワシ君の為に…真実を明らかにし、惨劇を止めようとしていること。

その為に何故だかのび太君を殺す必要があること…そこまでは理解した。でもね」

 

 冷静に。ヒロトは彼らの背を見据える。

 

「その説明だけじゃまだ、納得出来ない点がたくさんある。教えてくれないかな。

君が22世紀から来たわけじゃないなら…何故今日バイオハザードが起きるのを知っていた?

健治さんがこの場所で死ぬと予知できたんだ?」

 

 そうだ。ドラえもんはまだ、全てを語りきってはいない。ドラえもんが未来から来たなら、今日の悲劇を知っているのも分からないではなかった。

また、秘密道具の中にも本物があるのなら、その中の“どこでもドア”が本物なら−−今まで姿を隠したり密室への出入りも説明がつくだろう。

 だけど。彼が未来の存在でないなら。どうしてこの事件の展開を知っていたかが分からない。

しかもドラえもんの知識はえらく中途半端なものだったようだ。セワシの様子から察するに、アンブレラが黒幕なのもアルルネシアの存在も知らなかったようだし。

 それに。

 

「…君の存在そのものがおかしい。今この世界は1995年の時にある。

君みたいに生き物そのものの動きや思考ができるロボットなんて、明らかにオーバーテクノロジーだ。

いくらセワシ君が天才だったとしても、この時代の技術で君が作れるとは到底思えない」

 

 そうなのだ。ドラえもんは、確かに間抜けたところもあるし、自分の知る限り知能レベルもそこまで高くはないが−−でも、ご飯も食べれて喜怒哀楽を自由に表し、

不自然無く意志をかわすことのできるロボットなのだ。22世紀の技術だと聞いていたから不思議に思わなかった。だが20世紀なら話は別なのだ。

 放送室の日記や新聞も気にかかる。

あれがセワシのものだという保証はないが、もしそうならまるでセワシ本人がバイオハザードを体験し未来まで生き抜いたかのようではないか。

 答えが見えそうで見えない。のび太が混乱しているのも原因ではあるのだろうけど。

 

「……さっき言った通りだ。僕は22世紀から来たわけでも未来から来たわけでもない。

だってタイムマシンがないんだもの、時間なんて渡れると思う?」

 

 ドラえもんは振り向き、眼を細める。

「逆だよ。僕達が未来から来たんじゃない。君達が過去にいるんだ。…本来ならありえなかった筈の過去にね」

「何だって…?」

「ヒロト君だっけ。残念だよ。君達がもう少し早く来てくれていたら…セワシ君もまだ救われていたかもしれないのに」

 ヒロトを見て、消え入りそうな声でドラえもんは言った。

 

「本当に…全部が幻だったら楽ったのに。本当は嘘なんかじゃなかったから…その筈だったから。セワシ君はずっと…苦しみ続けてるんだ」

 

 もうドラえもんは振り向くことはなかった。ただ、ドラえもんが語り始めてからセワシが一言も発しなかったのは何故だろうと思う。

こちらを見さえしなかった。ひょっとしたら−−見せられないような顔を、していたのかもしれない。

 何かを言わなければと思った。大人気なくたっていい。泣き叫んで、どうしてどうしてと縋ってしまいたかった。

しかし、凍りついた体が言う事を聴かない。言及すればするほど真実を突きつけられるだけである気がして−−怖かったのだろうか、自分は。

 結局。ドラえもんとセワシが去るのを、ただ黙って見送る羽目になった。心の重石を取り除くことが出来ないままに。

 

「…何だよ。わけ、わかんねーよ…」

 

 やがて武が、呟いた。

 

「俺達…ドラえもんに騙されてたのか?ずっとずっと…友達だと思ってたの、俺達だけだったのかよ!?

 

 武の言葉は、のび太の心の代弁でもあった。友達−−否、それ以上の存在だと信じていた。

最高の親友。世界を敵に回しても味方でありたい存在で、彼もまた味方してくれる筈の存在だと−−そう信じてきたのだ。

 なのに何故。今になってそんなことを言う?22世紀のロボットじゃないというならそうでもいい。

秘密道具だって無いなら無いでそれでもいい。

幻で隠してきたことがあるならそれだって受け入れよう、彼さえ望んでくれるなら何だって!

 ドラえもんが友達でいてくれるなら、もっとちゃんとした子になる。勉強だってする。もう甘えたりしない。

 だから−−聞きたくなんてなかった。自分の死を望む、ドラえもんの言葉なんて。

 

「…僕が、いるから?」

 

 自分さえいなければ、良かったのだろうか。

 

「僕がいなければ…みんなが幸せでいられたの?」

 

 その肝心な言葉が分からない。アルルネシアが自分を宿命の魔術師と呼んだから?

では宿命の魔術師とは一体何なのだ。アンブレラが自分を捕まえようとしているから?ではその理由は何なのか。

 ヒントは既に示されているとドラえもんは言った。でも自分にはこれっぽっちも答えが見えない。

のび太が生きている時点で、それは世界にとって隠しようのない汚点だったとでも言うのだろうか。

 

「…僕がいなければ」

 

 ぴちゃん、と音。血だまりに指が触れる音。目の前に事切れている健治が流した、命の赤い海の音だ。

「健治さんだって…死なずに済んだ?僕が健治さんを不幸にしたの…?」

「それは違う!」

 そこへ鋭く、ヒロトが叫ぶ。

「健治さんは最期になんて言った?君はみんなを幸せにする子だって…君に出会って自分は幸せだったって!

その言葉を忘れるなってそう言った!!君は健治さんの想いを無駄にする気!?

「ヒロト…さ…」

 分かってる。分かってるのだ。

 

「だけど…もう、何を信じればいいか分からないよ…!」

 

 ドラえもんだけを信じていたわけじゃない。健治だけを信じていたわけじゃない。

でも奇しくもその両方がほぼ同時に崩れ落ちてしまったのだ。別の意味と別の結末であったにせよ、自分の中にいた彼らはたった今喪われてしまった。

 足下に空いた穴は深くて、深すぎて。底が見えないほど暗く、深い。

やっと穴の淵にしがみついているだけの自分がいる。もういっそ突き落とされてしまえたらと思うほど、それは惨めで情けない姿。

 

「もう嫌だ…裏切られるのも、友達が死ぬのも!

僕が死んでそれが終わりになるなら…それ以上の未来はないじゃんか!!

 

 言うべき言葉でないのは分かっていた。しかしもう、一度爆発してしまえば止められなかった。激情が溢れて決壊する。ドロドロに濁り空間を汚す。

 

「何でこんなことになったの!?何で何で何で何で!?…誰か教えてよ…っ…誰かっ!」

 

 絶叫する。喚く。すぐ側で静香が、武が、太郎が、ヒロトが。真っ青な顔をしていることは分かっているのに。

 

「死んじゃえばいいと思うのに…まだ、自分で死ぬのは怖いんだ…。最低。…もう…疲れちゃったよ」

 

 何で自分なんかが生き残っているのか。健治や安雄の方が、よほど勇敢で生き残るべき存在だったのに。

「………当たり前のことだわ」

「え?」

「当たり前のことよ。…死ぬのが怖くて、何がいけないの。あたしだって怖いわ」

 不意に、口を開く静香。のび太は泣きぬれた顔で彼女を見る。

 

「…何でこんな事になってしまったか…分からないから、分かる為に生きてる。

…それでいいじゃない。今までだってこれからだって…全部決めつけるにはまだ早いわよ、のび太さん」

 

 ポロポロと涙を零しながら静香は言う。いつもならその涙に胸が痛くなった筈だ。しかし今のび太は場違いなほどに思った。

 どうしてこんなに綺麗なんだろう、と。

 

「ヒロトさんの言う通りよ。健治さんと同じ事をあたしも言うわ。のび太さんは間違ってないの…何も。

あなたは誰とでも友達になれて…みんなを笑顔に出来る人だわ。

だからあなたが泣くとみんなが悲しいの。あたしも悲しいわ。悲しくてたまらない」

 

 のび太の側に膝をつき、彼女はのび太の手を握る。温かい手だった−−とても、とても。

「みんなを不幸にしたくないなら、あなたは幸せにならなきゃダメ。

…まだ何一つわかってないのに諦めたら…ダメ。もし本当にセワシ君の言葉が正しいと分かったら…ううん、分かっても、あたしは傍にいる」

「どうして…?」

「そんな事訊かないでよ。決まってるじゃない」

 静香は泣きながら、微笑んだ。

 

「のび太さんがそこにいるだけで、あたしは幸せだからよ。

生きてるだけでいいの。それだけで…いいの。だから生きる理由なんか本当は考えなくたっていい」

 

 生きるだけでいい?

 生きているだけで?

 

「本当…に?」

 

 まだ彼女は、自分を信じてくれるのか。あんな弱さと醜さをさらけ出して今へたりこんでいる自分に、失望したりしないのか。

こんな酷い事になっても−−それがのび太のせいかもしれないと分かっていても。傍にいてくれるというのか。

 

「本当よ。安心して。あたしは絶対…のび太さんを裏切らない」

 

 涙の一滴さえ、光るほど。彼女はとても美しくて。

「そして…ドラちゃんも本当の意味で貴方を裏切ってないし…貴方と一緒にいて幸せだったはずだって、あたし信じてる」

「ドラえもんも…?」

「そうよ。だって」

 くしゃり、と歪む静香の顔。

 

「ドラちゃん、泣いてたわ。涙は見えなくても、あたしには泣いてるように見えたの。

本当はあんなこと言いたくなかったのよ」

 

 ドラえもんが泣いていた?自分を殺すと−−自らは敵だと−−情を捨てろと。今まで見てきた夢も未来も幻想だと切り捨てた彼が?

 

「あくまであたしの解釈で願望だけど。最初が“そのつもり”だったから今も“そう”とは限らないんじゃないかしら。だってドラちゃんは言ったわ」

 

 

 

『本当に…全部が幻だったら楽ったのに。本当は嘘なんかじゃなかったから…その筈だったから。セワシ君はずっと…苦しみ続けてるんだ』

 

 

 

「全部が幻じゃないから辛いって…だったら本当だったものも、あったのよ。セワシ君がって言ったけど、あれはドラちゃんの本心でもあると思うの」

「静香ちゃん…」

「だから、信じて」

 視界が滲んでいく。静香のくれた希望で、息が吸えた気がした。のび太はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、頷く。

 信じてみてもいいのだろうか。まだ絆は断ち切れていないのだと。

 

六十三

疑心暗鬼

〜囚われた夢の牢獄〜

 

 

 

 

 

ただひとつ、ひとつだけ。