−−西暦1995年8月、某所。

 

 

 

「話さなかったね、君は」

 

 ドラえもんはそう言って、前を歩くセワシに問いかける。

砕かれた仮面はもう意味を成していない。セワシはついさっき、ゴミ箱に放り投げていた。

 そもそも何の為の仮面だったのか。

確かにセワシの顔を見たら、彼らが驚かない筈は無かっただろうし、無用の混乱を招いたのも確かだろうが−−自分には、それだけが理由ではないように思う。

 自分も、セワシも。のび太にまだ全てを明かしてはいない。

今まで言った言葉に矛盾しない真実を、未だに隠したままでいる。それでいいと思っていた−−今までならば。

「……あれだけヒントを与えたんだ。それでまだ気付けないなら、ただの馬鹿だろ」

「相変わらず辛辣だね」

「誰かさんに似ただけだ」

 つい苦笑する。自分自信のさりげない毒舌は、ドラえもんも自覚するところであった。

相手を傷つけたいわけでもないのに、ついつい本心を口に出してしまう。嘘がつけない質は生まれつきだ−−良くも悪くも。

 だけど、知っている。セワシの言う“誰かさん”は−−本当は自分のことではないということを。

 

「今回は予定外なことばかりだ。そもそも僕達がのび太君達の前に出て来る予定なんて無かったじゃない」

 

 のび太を殺すという目的はあったけれど。当初は“物語の終盤”で、バイオゲラスのようなB.O.Wを操り、けしかけるつもりだったのだ。

それが叶わないなら、顔を見られる前に−−斬る。セワシの戦闘能力ならば可能な筈だった。

 なのに。明らかに盤上には、存在しなかった筈の駒が増えている。

そもそもヒロト達の存在もイレギュラーで、加えてスネ夫や太郎がこの局面まで生き残っているのが奇跡だった。

喜ばしいパターンではあった筈だ−−健治さえ、命を落とさなければ。

「初めて見る物語。…それだけで価値はあるよ」

「……何が言いたい」

「…分かってるくせに」

 分かっている。自分が甘いことは。甘さを捨てきれないようでは、いつか足元を掬われるに違いないことは。

 だけど。それがドラえもんの本心だった。何故なら自分の願いは−−全ての悲劇を回避し、みんなに幸せになってもらうことだったから。

 たとえそこに−−自分が含まれていないとしても。

 

「のび太君を殺す必要…本当に、あるのかな」

 

 のび太がいることで引き金は引かれた。運命は狂った。それは紛れもない真実かもしれない。

しかし、そんな絶望的運命でも、今の彼らならば−−打ち破ってくれるんじゃないかと、そう期待してしまうのだ。

 何より。

 

「消えちゃうんだよ、何もかも」

 

 のび太が死んでも。

 セワシが救われることはない。

 

「僕が消えるのはいい。でも…君や出来杉君にまで消えて欲しくないよ」

 

 今更惨いことを言っていると知っている。分かっている。だけど。

 のび太と話をしてしまったことで。確かに自分は−−揺らがされてしまった。

 

「……すまない」

 

 怒るかと思った。しかし、セワシはただ謝った。苦痛にまみれた声で。

 

「お前達を巻き込んですまない。ただ理解してくれ。どんな結末に転んでも…俺が救われることなんてないんだ。だからもう……いい」

 

 そんな彼に。どうしてこれ以上が言えるだろうか。

 

「…みんなが幸せになってくれるなら、俺は救いなんて要らない」

 

 優しい子。それはドラえもんが初めて彼に出逢った時から変わっていない。

だけど長い月日が彼を、荒んで歪んだ子供にしてしまった。語られる地獄など生温い。そう思うほどの絶望を−−見た。

 自分は所詮ロボットだ。心はあっても人間にはなれない。彼がどんな想いで自分を創ったか、その傷の深さはどうやっても図れはしない。

 彼はどんな目で見ていたのだろう。どんな想いでシナリオを演じてきたのだろう。その闇が、悲しみが−−一体誰に分かるというのか。

「……今はその話は後だ、ドラえもん。出来杉とはまだ連絡がつかないのか」

「…うん」

 力技で話題を逸らされた。分かっていたが、こちらも無視できない問題であることは確かだ。

ドラえもんは再びモニターを操作する。しかし、相変わらず画面は沈黙したまま。オートで出来杉を映してくれる筈のそれは、真っ暗なままだ。

 

「…事故で電波障害が起きてるのか…意図的に妨害されてるのか。分からないけど、通信は途絶えたままだ」

 

 気になるのは連絡が途切れる直前。出来杉が言っていた言葉だ。

 

B.O.W以外にも…化け物はいたみたいだ』

 

 それはアルルネシアのこと、なのだろうか。あるいはまだそれ以外に秘密が隠されているのか。

 何としてでも出来杉を救出し、詳細を訊かなければなるまい。

嫌な予感がする。あの出来杉がそう簡単にやられるとは思えないが−−。

「…この世界の外から来た僕達だけど。この世界で死んだら終わりなのは確かなんだ。出来杉君にもしものことがあったら…」

「…ああ」

 そう。自分達はあくまで外側から干渉している駒にすぎない。ゲームマスターでは、ない。

そしてこのゲーム自分達三人がとられた場合、それは本物の死を意味する。のび太達とは違うのだ。

 特にセワシは絶対に死んではならない。“スイッチ”は彼にしか押せないのだ。

もし彼が“スイッチ”を押さないまま死ぬようなことがあれば−−もう後戻りは出来なくなってしまう。

 何千回も何万回も、無限にあるようにも見えるチャンスは。その実、一回分の奇跡しか与えてはくれないのだ。

だから自分達は−−否、セワシは。ずっと試行錯誤を続けている。いつか望む景色に辿り着ける筈だと信じて。

 

「…ドラえもん。お前の気持ちにも一定の理解はあるつもりだ。

しかし忘れるな。答えをいつまでも先送りには出来ないんだ。長引けば長引くほど危険も増していく」

 

 セワシは振り向き、言った。

「…全ての悲劇が始まった瞬間を…運命がひっくり返ったその日を。探し当てたらもう、のび太に用はない」

「……分かってるよ」

 いつか殺さなければならないのび太を生かし続けているのは、あくまで彼らを利用して真実を炙り出す為。

のび太を囮に使って、敵を誘い出す為。そして最終的には、世界が壊れた最初の日がいつだったかを知る為なのだ。

 もう知りたかった真実の殆どは知れた。あとはアルルネシアの本当の目的と、破滅の日さえ知れたら−−それで終わりに出来る。

 否。終わらせなくてはならない。

 

「…セワシ君。一つだけ、頼みがあるんだ」

 

 ドラえもんは覚悟を決めて、口を開いた。

 

「最期は、僕の手でやらせて」

 

 それが自分のケジメ。

のび太の親友であり、セワシの親友であり−−それがこの世界に生まれてきた意味である自分の。身勝手にして最上のフィナーレだ。

 のび太を殺す役目は。たとえセワシでも譲りたくない。

 

「…出来るのか、お前に」

 

 疑わしげに尋ねるセワシに、ドラえもんは笑ってみせた。

多分、あまり上手には笑えていなかったのだろうけども。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、飼育所・管理人室前。

 

 

 

 健治との別れは、あっけないものだった。正直、太郎はあの場所から離れたくは無かったが−−武に抱え上げられてしまっては抵抗のしようもない。

暴れても無意味。そう悟ってからはただ、涙に暮れる他無かった。

 健治が倒したフローズヴィニルトの体からは、一本の鍵が見つかった。そこには管理人室というタグが。

どうやら入れなかった地下の飼育施設の管理人を開けられる鍵らしい。またあからさまに誘われている。

 様々な意味で、皆が皆ショックを受けている。しかし、まだみんなは前に進む気力が残っているらしかった。

まずは鍵を開けて管理人室の中を調べよう−−そういう話になったみたいだった。

 だが。太郎にはもう、どうでも良かった。

いや、そんなことを言ったら健治に叱られてしまいそうだが−−健治が死んでしまったその時に、太郎の中でも 何かが死んでしまったのだ。

 もう、頭を撫でて貰えない。

 叱って貰えない。

 おんぶも、手を繋ぐことも−−出来ない。

 

−−これが、死。

 

 両親が死んだ時はまだ心のどこかで受け入れきれていなかった。実感が無かった。

しかし健治の時は。生々しく、長い時間−−彼が陵辱され殺されていく様を聞かされていたのだ。

 最期の言葉。閉じられた瞼。溢れた血。冷たくなっていく、掌。もう二度と戻ってこない−−永遠の死。

 

−−死んじゃったんだ、本当に。

 

 穴だ。自分の中にぽっかりと空く、穴。もしかしたらそれはもっと前から空いていたのに、健治がいたから忘れていられたのかもしれない。

 彼は生身の人間だ。テレビの中のヒーローではない。

無敵の体なんて持ってないし、死んだ後にお姫様の魔法で生き返るわけでもない。

もう幼稚園児じゃなあのだ。現実と幻想の区別くらい、ついている。

 だけど。それでも心のどこかで期待していたのかもしれない。

信じるフリして縋っていたのかもしれない。自分を置いて彼が死ぬ筈がないなんて−−そんな保証、ある筈も無かったのに。

 

『泣いてもいいけど、いつまでも…立ち止まってるだけじゃ駄目だ。男だろ』

 

 大人はみんな不公平なことを言う。男の子だって悲しい気持ちはある。

なのに何で男の子は泣いちゃいけないなんて言うのか。女の子は当たり前のように赦されるのに。

 健治だけだ、泣いていいと言ってくれたのは。その健治さえ、立ち止まっていてはいけないと言う。

 

『これからはもう、守ってやれない。自分の身は自分で守れ』

 

 自分が守って貰ってばかりだから。自分の代わりに彼が死んでしまったのだ。

 

『んでもって…出来れば、胸を張って誰かを守れる男になれ。

そうしたら、いつかまた逢えた時…いっぱい誉めてやる。お前の親父とお袋と一緒にな』

 

−−無理だよ、健治兄ちゃん。

 

 健治に誉めて欲しい。父にも母にも誉めて欲しい。今すぐにでもそっちに飛んでいって、目一杯抱きしめて欲しい。でも。

 

−−自分のことさえ守れないのに、誰かを守るなんて無理だよ…!

 

「う…ぅぅ…」

「おい、太郎…」

 管理人室の前まで来ても、泣き止む気配のない太郎に。

太郎をここまでおんぶしてきた武がついに、咎めるような声を出した。

 その途端。太郎の中で何かが−−爆発した。

 

「何で!何でみんなそんな…すぐ次に、前にって…!!健治兄ちゃんが死んじゃったのに!!

 

 子供ながらに言うべきでない事と理解していた。でも、もう耐えられなかった。

 

「僕なんて置いていってよ…!僕がいたから健治兄ちゃんが死んじゃったんだ…!!きっとみんなも死んじゃうんだ…!お願い…もう…」

 

 これが、誰かが見てる悪い夢なら、どんなに良かったことか。

 

「もう……嫌だよぉ…っ!!

 

 すると。のび太が武に何かを言った。武は憮然とした様子で、太郎を降ろす。ぐすぐすと鼻を鳴らしていると、目の前に来たのび太が言った。

 

「太郎…少しだけ、話をしようか」

 

 彼は、泣き出しそうな顔で−−笑っていた。

 

六十四

本音

〜騙れども、れども〜

 

 

 

 

 

握りしめて、ただ。