人は何故生まれるのか。何故生きるのか。

 本当のところ、その理由なんて誰にも分かりはしない。ただそこには必然があり、運命があるだけだ。

どんな親から生まれてどんな子に育ち、どんな人生を辿るのか。もしかしたらそれは、誰かのシナリオをなぞる事でもあるのかもしれない。

 だけど。のび太は今、思ったのだ。

誰かの描く物語ではなく、自分自身の為の物語でありたい。

神にも悪魔にも−−当然魔女にも汚せぬものがある筈だと。

 たった一つの意志を貫くことは、とても難しい。しかしそのたった一つが、あるいは人が人たる理由に成りうるのかもしれない。

 のび太は想う。まだ全ての霧が晴れたわけではないけれど−−太郎の涙を見て、考えたのである。

もしかしたらこの瞬間の為に、自分と彼はこの場所に“選ばれた”のかもしれないと。

 何故なら、分かる気がしたから。太郎の痛みが−−自分になら。

 

「…スネ夫やジャイアンや静香ちゃんはみんな知ってることなんだけど」

 

 太郎の前に屈み込み、のび太は言う。

「僕ってさ。…凄くチキンで…泣き虫で。今までずっといいとこナシだったんだよねぇ。…太郎はさ、テストで0点とったことある?」

「え?…な、ないけど…」

「じゃあかけっこで一番になったことは?」

「あ、あるよ!僕、クラスで一番足が速いから!!

「そっか」

 のび太が何を言いたいのか、分からないだろう。しかしすぐ反応してきたところを考えると、太郎は足の速さにそこそこプライドがあるようだった。

 

「それは、すごく素敵なことだよ」

 

 羨ましいと純粋に思う。自分には何も無かったから。誰かに自慢出来ることなんて、何も。

「…いいなあ。僕はいっつもテストは0点だし、かけっこはビリだし、

野球じゃライパチ王があだ名になってるし…これだけは負けないってこと、一つも無かったんだよね」

「のび兄ちゃんが?」

「うん」

 太郎が驚いている顔をしているあたり−−今の自分は、少しはマシに見えているのだろうか。

 そうだと、信じたい。

 

「だけど…こんな僕でも、大事に思ってくれる人はたくさんいて。

その度に…世界は捨てたもんじゃないって気付くんだ」

 

 自分が見てきた世界など狭いもので。裏側のドロドロに濁った水に、触れたことさえ無かったかもしれないが。

 それでも、目に映った全てが偽りというわけじゃない。

綺麗なものはたくさん溢れている。今でさえ−−否、今だからこそ強くそう思う。

 

「一番愛してくれるのは、パパとママ。太郎のパパとママもそうだったと思うけど…こんなダメな息子だってさ、いつも一番に想ってくれるんだ」

 

 生きているうちに、言えば良かった。

 いつもありがとう。自分も大好きだよ−−って。

当たり前なことを当たり前と気付けないほど、自分は愛されていたのだ。父にも母にも、先生にも友達にも。

 

「そんなママを。…僕は一番最初に殺した。本来なら最低なことだよ。恩をアダで返したわけだから」

 

 あの状況ならどうしようもないと皆は言うかもしれない。

既に母は母でなくなっていたし、実質は発症した時点で死んだも同然なのだから。

 それでも。これもまた一つの事実。目を背けてはならない−−事実。

「弱虫で泣き虫でいつも誰かに頼りっきりで…その上自分のママまで殺して。

さらには…セワシ君曰く、この事件は僕のせいだとか言うじゃん。こんな奴、生きてるのが間違いだって思わない?」

「おい、のび太それは…」

「でもね」

 さすがにと口をはさむ武を遮り、のび太は言った。

 

「だからこそ、今。生きなきゃいけないって…そう思うんだ」

 

 死ぬのが怖いのに、死にたいと思うのは。生きることがこんなにも怖いんだって知ってしまったから。

死はけして逃げではない。世の中には様々な考え方の人がいるだろうが、少なくとも自分はそう思う。死ぬことだって、人に与えられた然るべき権利だと。

 だけど。

 死ぬのは、いつだって出来るが。一度死んだらもう一回生きることは出来ない。

選択を覆せるのも、来た道を戻るのも−−生きていなければ、出来ない事なのだ。

 

「…誰だって…生きるのは辛いけど。でもどんな人だって与えられた意味があるから生きてるんだって…僕はそう、思う事にした」

 

 のび太は天を仰ぐ。灰色のコンクリートの向こうに、空を描く。今、自分はまだ生きている。こんな自分だけど、生きている。

 それを嘆いたっていい。だけど、嘆きながらも考えみようと思ったのだ。こんな自分が今此処にいる訳を。

 

「何の取り柄もない僕が…ママや安雄や健治さんの命を踏み台にしている僕が今。

生きているのだって、きっと何か役目があるからなんだ。それを知ってから死ぬべきなんだ…僕の罪が重いなら、尚更に」

 

 この世に偶然はないというのなら。

 自分はその必然を、見つけたい。

「健治さんは無駄死にしたんじゃない。…意味を見つけて最期まで生き抜いたんだ。少なくとも、あの人は立派に君を守り抜いたよ」

「でも…でものび兄ちゃん…」

「確かに。君がいなければ、健治さんが殺されることは無かったかもしれない」

 びくり、と太郎の肩が震える。太郎の傷を抉るような言葉かもしれない。だけど、それもまた真実。

 しかし真実は一つではない。そんな時代はとうに過ぎた。真実は人の数だけ、想いの数だけ存在しうるのだ。

 

「だけど…君を守ることで、あの人もきっと救われてたんだ。だってさ。君を守らなきゃって思ったら…諦められないじゃんか」

 

 のび太は健治じゃない。だから健治の想いが分かるなんて口には出来ないし、本当はそうではなかったかもしれない。

だが今のび太が、太郎が信じればそれは確かな真実となるのだ。

 亡者だらけの景色の中、無力な自分を嘆きながら、絶望しながら走って。きっと誰もが一人きりなら、戦い抜くことなど出来なかった筈だ。

 自分が諦めたら、守れない人がいる。そう思ったら無理矢理にでも自分を奮い立たせるしかない。

トイレで初めてゾンビを撃った時もそう。太郎を守らなきゃと思ったから、引き金が引けた。

大義名分と共に勇気を得た。一人きりだったら泣き叫び、震えるばかりで−−何も出来なかったかもしれない。

 

「君がいたから。健治さんも僕らも…生きる事を諦めないで済んだんだよ」

 

 健治が死んだのは、諦めたからじゃない。

 諦めなかったから彼は−−最期まで生き抜くことが出来たのだ。勇気をくれたのは、太郎の存在そのもの。

「君でも大丈夫なくらい…安全な場所に連れていく。そうしたら僕達だって助かる。…君が僕達に生きる目的を与えてくれたんだ」

「僕…が…?」

 はらり、と。太郎の大きな瞳から零れる、滴。泣きぬれて真っ赤になった頬に、のび太は手を当てる。

 悲しむのは自分達が人間だから。温かいのは、まだ息を止めていないから。

 立っているのは。まだ希望を捨ててはいないからだ。

 

「太郎。君の眼に…僕はどう映ってる?」

 

『忘れるんじゃないよ。幸せは有限だってこと』

 

「少しは勇敢な男に…見えてる?」

 

『逃げるな!どんな恐ろしい景色でも…今こそが現実だ。目を背けるな。生きる為に、戦え!!

 

「だとしたらそれは…たくさんの人に支えられて…それがどんなに幸せか、気付けた自分がいるからだよ」

 

 その幸せを取り戻す為に。震えながら、泣きながら、怯えながらも立ち向かうと決めた。

 

「どんなに無力でも、怖がりでも。守ることは出来るんだ。君さえ、そう信じるなら」

 

 こんな情けない自分にだって出来たのだ。

足が速くて0点にも縁がない太郎なら、もっとたくさん出来る事がある筈だ。

健治はそれに気付いていた。だから言った筈だ。

 誰かを守れる、胸を張って前を向ける男になれ−−と。

 

「僕は、僕の大切な人達に…これ以上涙を流して欲しくない。そして出来れば、大事な友達と…また仲直りがしたい」

 

 健治の死を無駄だと思うこと。彼が太郎を疎ましく思っていたと考えること。

ドラえもんが自分に殺意しか抱いていないということ。のび太が存在する限り、悪夢は終わらないということ。

 ネガティブに考え続ければキリがなく、思い込んでしまえばそれが真実になってしまう。

のび太自身、もう少しで挫けてしまうところだった。静香が新しい真実を与えて、引っ張り上げてくれるまでは。

 このまま、ドラえもんとすれ違ったまま死んだら−−自分はきっと、死んで尚後悔する。

それは嫌だった。せめて彼の本当の気持ちが知りたい。何が嘘で何が真実か理解したい。

 まだ仲直りできるなら。その可能性が僅かでもあるならそれに賭けたい。償いの為に死ぬのは、それからでもいい。太郎だって同じだ。

 自分の為だけの真実を手に入れるまっ生き抜かなければ−−それこそ本当に、健治の死は無駄になってしまうだろう。

 

「太郎も、勇気を持って。生きる勇気を…健治さんの気持ちに応える勇気を。

君になら、出来る。いいところがたくさんある君なんだから」

 

『んでもって…出来れば、胸を張って誰かを守れる男になれ。

そうしたら、いつかまた逢えた時…いっぱい誉めてやる。お前の親父とお袋と一緒にな』

 

「嫌なことはたくさんあるけど、嫌なことだけ数えないで。いつか誉めて貰う為に…嬉しい事の為に、一緒に頑張ろうよ」

 

 弱虫で泣き虫だった自分と、太郎の姿が重なる。どんな人間だって、想い一つで変われるのだ。太郎になら、必ずできる。

 

「健治さんの本当の気持ちがなんだったのか。真実を決めるのは、君だよ太郎」

 

 のび太は太郎に、健治の形見である刀を手渡した。太郎は怖ず怖ずと刀を受け取る。

 健治は言った。そのままののび太であれと。見失わないで欲しいのだと。それが彼の願いなら、自分はもう疑わない。

 自分といて幸せだったと。幸せだと言ってくれる人が一人でもいるなら。その言葉を、自分は信じよう。だから太郎も信じて欲しい。

 太郎のおかげで健治が生き抜けたと、そう告げた自分の言葉を。健治の最期の笑顔を、想いも。

 

「……僕。我慢する」

 

 刀を抱きしめ、太郎は言った。

 

「健治兄ちゃんもパパとママもいなくて…寂しいのも、悲しいのも我慢する。

我慢した分、健治兄ちゃん達が誉めてくれるなら…もう、泣かないよ」

 

 顔を上げた太郎の眼はまだ真っ赤で、潤んでいたけれど。さっきのように、絶望に沈みきってはいなかった。

 絶望の中。見つけた光の欠片を、確かに瞳に宿していた。

「僕も…ヒーローになれるかなあ」

「なれるさ、君なら」

 勇者がいるのはブラウン管の中だけではない。

 魔法も、夢も、希望に満ちた真実も。それを信じて努力すれば本物になる。のび太自身が、そうだったように。

 

「僕…僕も、健治兄ちゃんやのび兄ちゃんみたいになりたい。ううん…なる」

 

 それが、世界だ。

 

「もう嫌なことが起きないように…僕が自分で、たくさん、守れるようにするから」

 

 太郎の頭を撫でるのび太。健治はきっと見ていてくれる筈だ。自分達の、生き様を。

 

六十五

〜明日への

 

 

 

 

 

祈るように、今。