−−西暦1995年8月、学校校舎・3F南階段。

 

 

 

 物事はなかなかうまく行かないものだ。努力で可能性は繋がるが、絶対な事など何一つない。願えばそれだけで叶うほど、世界は甘いものではないのだから。

 綱海は自分の使い古しの携帯を畳み、ポケットにしまった。自分の携帯ならば異世界を経由しても連絡はとれる。仲間から目新しい報告はない。

 しかし反面。こちらの世界では目まぐるしく盤面が動いている。

健治がまさか、あそこで命を落とすとは。綱海は唇を噛み締める。自分がいたら何かは変わったのか?

いや−−きっとどうにもならなかった筈だ。ヒロトが何も出来なかったくらいなのだから。

 それでも何かはできたんじゃないかと、そう思ってしまうのが人なのだけど。

「緑川。いくつか訊きてぇんだけど、いいか」

「何かな」

 音もなく、緑川リュウジが姿を現す。彼もまた魔女の端くれ。その人あらざる出現を見るたびに思う。

 

「…お前は知っていたのか。健治があそこで死ぬってこと」

 

 魔女や魔術師として力を覚醒させた者は、多かれ少なかれ特異な力を持つ。

まだ目覚めが不完全だったのび太や健治と違い、緑川はほぼ完成された魔女だ。

確かに彼は予知は得意ではないが、それでも人の死は見えることが多いと聴いていた。

 

「…知っていたよ」

 

 案の定、頷く緑川。

「でもあれは、もう決まってしまっている事だった。…俺にさえ、健治さんの死という運命は回避出来なかったんだよ。

出来たのは……ほんの少しの間、あるべき姿を思い出させただけ。

生きている姿を健治さんに思い出させることで、ほんの少し結果遅らせることしか出来なかった」

「じゃあ…本来なら健治は…」

「うん。…のび太君達が大広間に入る前に死んでた筈だった」

 そういうことか。綱海は一つ息を吐く。本当ならのび太達が対面するのは、ズタズタに引き裂かれた健治の遺体だったということだ。

しかし、緑川の干渉でほんの少し未来がズレた。彼は最期に仲間達に言葉を遺すだけの時間を得たのだ。

 

「…それでも、多分」

 

 絶望があったかもしれない。

 悲劇があったかもしれない。

 

「意味はあったんだろうよ。ありがとな、緑川」

 

 だけどパンドラの函には、ひとかけらの希望があって。

健治は確かにそれを、仲間達に遺していったのだ。

 出来れば自分もその場所にいたかったと綱海は思う。

自分がいたところで、彼が自分に言葉を遺す事は無かっただろうが。

 

「意味…ね」

 

 緑川は自嘲し、天を仰ぐ。

「俺も“魔女”だから。…どんな事にも須く意味があり、須く無意味でもあるのを知ってる。

愛情の裏に憎悪が潜むように、全てはコインの裏と表に過ぎない」

「生と死も…か?」

「あるモノにとってはそうだろうね。その境地に至ってしまうのはとても怖い。

俺だって怯えてるし…そうでない事に誇りを感じてもいるよ。…まあどう解釈するにせよ」

 壁にもたれる緑川。その視線は窓の外に向いている。一寸先は闇。景色も今の自分達の状況もさして変わりない。

 ただし。

 

「この物語も。意味があると感じるか、無意味と捉えるかは読み手次第と言うわけだ」

 

 その語り口から察するに。緑川には、綱海には見えていないものが見えているらしい。

 綱海もまた人あらざる力は持つが、生憎自分は魔女や魔術師でもなければ預言者でもなく、賢者でもない。

早い話が、真実を透かして見るのは非常に苦手としているのだ。

だから恐らく自分達のリーダーは、自分をヒロトと組ませて送り込んだのだろう。自分達ならば互いの得手不得手を補いあえると信じて。

 

「訊きたいことがあるんだ、緑川」

 

 もうそろそろ。物語も終盤戦に突入していい頃だ。

 

「ドラえもんが言っていた言葉が引っかかってんだよな。あれ、どういう意味だよ?」

 

『逆だよ。僕達が未来から来たんじゃない。

君達が過去にいるんだ。…本来ならありえなかった筈の過去にね』

 

『本当に…全部が幻だったら楽ったのに。本当は嘘なんかじゃなかったから…その筈だったから。

セワシ君はずっと…苦しみ続けてるんだ』

 

「俺達はずっと、あいつらが未来から来たと思ってた。少なくともドラえもんはそういう前提で認識だった筈だぜ。

でもあいつらはそれをキッパリ否定していきやがった」

 

 無論、彼らが本当のことを語っているとは限らない。

特にセワシはのび太を憎み、ドラえもんものび太に対し敵だと告げている。ならば嘘を言って惑わすことも考えられなくはない。

 だが。もし彼らの言葉が嘘ならば、破綻するものがある。

タイムマシン。彼らがそれを扱えるなら、この事件発生前に手を打つことも、のび太の存在を最初から無かったことにする事も可能なはず。

それをしないのはつまり、“タイムマシンが使えない”という彼らの言が真実だからではないだろうか。

 

「それに。セワシって確か…のび太の子孫って設定の筈だ。なら、のび太と同じくらいの年で現代に存在することがまずおかしい。

未来から来たわけじゃないなら、あいつはのび太の子孫じゃないということになる」

 

 しかし。ならば何故セワシはあんなにのび太にそっくりなのだろう。

しゃべり方や性格にはだいぶ違いがあるようだが、他人の空似というにはあまりに似すぎている。

 そしてもしのび太と無関係の他人なら。彼の証言に、矛盾が生じる。

 

『確かに…お前が消えれば俺もまた消えるだろう。だが俺は…自分の存在に代えてでも成すべきことがある。

俺の命と引き換えに世界が救われるなら本望なんだよ』

 

 のび太が消えれば彼も消える運命にあるという。セワシはのび太の子孫だと誰もが思っていたから、その時は問題視しなかった。

けれど後のドラえもんの証言と照らし合わせると、どうにも辻褄が合わない。

 のび太の子孫なら今ここに存在する筈がなく。子孫でないなら、何故のび太と一緒にセワシが消えるのかが分からない。

 

「……そうだよね。セワシ君とドラえもんの意見は、食い違ってるように見える。…でも」

 

 眼を細め、緑川は言った。

 

「祝祭の魔女…レーゼの名において、赤き真実を執行する。【セワシ君もドラえもんも、嘘は何一つついていない。】

…まあ解釈次第にはなるけど…彼らは意図的な嘘はついていないよ」

 

 【このカッコで括られた言葉は赤き真実】。それは、魔女や魔術師が使う魔法の一つ。

彼らはその奇々怪々で派手な力ばかり注目されがちな存在だが、彼らの本当の武器は魔法の杖でも巻き起こす嵐や炎でもない。

 綱海は知っている。緑川達魔女の最大の武器は、言葉と真実であることを。それ自体が最大最強の武器なのだ。

 彼らの使う【赤き真実】。それは彼らがその力を駆使して読み取った真実を、言葉に変えてぶつける力だ。

【赤で語られる言葉は、疑う余地なき絶対の真実】。【赤き真実】の内容を、耳にした人間は疑うことが出来ない。

証拠や物証がなくても、皆が当たり前のように信じるのだ。だから、誰かの潔白を証明するには非常に便利な力なのである。

 ただし、便利であるがゆえに制約もある。一つは【赤ではけして嘘がつけない】こと。

二目つは【意図的な本人の潔白証明に赤は使えない】こと。

三つ目は【赤には状況と術者の質次第で、毎回違う制限がかかること。術者は一定回数までしか赤を使用できず、またその制限回数が何回かは誰にも知られてはならない】ということだ。

 他にも制約はあるかもしれないが、魔女ではない綱海が知っているのはここまでである。

いずれにせよ緑川が赤き真実で【セワシとドラえもんは嘘を吐いていない】と口にした以上、それは疑う余地などないのだ。

「緑川…念の為復唱要求だ。“あのセワシはのび太の子孫ではなく、未来から来た存在でもない。”…言えるか?」

「応じるよ。【あのセワシ君はのび太君の子孫ではなく、未来から来たんじゃない。ついでに言うならあのドラえもんも未来から来た存在じゃない】

あともう一つ。【彼らはタイムマシンを持ってないし、作る技術も持ち合わせていない】

そんでもって…【のび太が消えればセワシも消える】。」

「ちょ…今の【赤】が全部成立するのかよ!?

「そ。なかなか綺麗な盤面だと思わない?矛盾するように見えて、この三つが全部成り立つんだからさ」

 ついまじまじと緑川の顔を見てしまう。彼はどこまで真実を“理解”できたのだろう?

赤き真実の性質上、緑川は“自分の発言は本当です”と赤で言うことは出来ない。しかし、【赤き真実”で嘘がつけない】ことだけは事実なのだ。

 

「…俺にも上手く説明できないんだけど。綱海は気付かなかったかな」

 

 目を伏せて緑川は言った。

 

「この世界に来た時から違和感があったんだ。この世界が現実なのは確かだし、リアリティも申し分ないのに……どこかピントが合わないっていうか。

まるでそう、この世界を覆う“猫箱”の外に、もう一つ“猫箱”があるかのような…ああもう、なんて説明すればいいのかなあ」

 

 珍しいこともあるものだ。現代文や古文で苦労したこともなく、作文で右に出る者のいない彼が、本気で語彙に悩むだなんて。

「まるで…たくさんある欠片の一つにいるみたいで。この世界が終わったらまた新しい世界が始まるんじゃないかって、そんな気がするんだよね」

「何じゃそりゃ」

「ヒントはあげたでしょ。頑張って理解してよ」

「俺理数系なんだってば。無茶ぶりしないでくれるかね緑川君」

「こら、そこで放り出すなってば!」

「いいいいたたたたっ!やめてマジ痛ぇんだってば!」

 耳を引っ張られ、綱海は悲鳴を上げる。まったく、ダンボみたいなデカ耳になったらどう責任をとってくれるつもりなのか。

 

「…ごめんね綱海。俺が知ってることは真実の一部にすぎなくて…口にすることが出来るのもまたさらにその一部でしかないんだよ」

 

 魔女ってのも面倒な役職でさ、と肩を竦める緑川。

 

「でもこれだけは言える。【アルルネシアがやらかしたことのせいで、世界のあるべき未来は変わってしまったんだ。

俺達は今、そのありえなかった筈の場所にいて…セワシ君はそれを正しい歴史に戻す手段を探している】

…さすがにこれだけ言えば、君にも予想がつくんじゃないかな」

 

 正しい歴史。そう緑川が言った瞬間−−綱海の頭に、ある仮説が浮かぶ。彼らの証言に意図的な嘘はない。

猫箱の外に、猫箱。未来から来たはずのないセワシが持つ、元の分からぬオーバーテクノロジー。

のび太とセワシの関係。タイムマシンのない、現状。のび太のせいとされた、悲劇の発端−−。

 

「…まさか?」

 

 頭の中で、ピースが嵌る。バチリバチリ、一つ嵌ればもうあとはあっと言う間だった。綱海は血の気の引いた顔で、告げた。

 

「…もしかしてあいつらは…」

 

 仮説を口にする綱海に、緑川は苦い笑みで答えた。

 

「うん……正解。望むなら赤で今の言葉全部復唱してあげられるよ」

 

 綱海は知った。残酷すぎる、彼らの真実を。そして悟った。セワシの抱えた闇を。

 絶望は、続いているのだ。

 

六十六

けらあそび〜

 

 

 

 

 

騒ぐ胸の中、只。