聖奈を追いかけること。それを一瞬躊躇ったことが間違いだったかもしれない。
全身の産毛が逆立つような悪寒と、不快感。金田は理解した。この保健室に今、招かれざる客が現れたことを。
「…のび太君。みんな」
金田は震える指で、インカムのスイッチを入れた。
「聖奈君が保健室からいなくなってしまった。彼女の親戚の子に、よく似た人影を見たせいだが……罠かもしれない。彼女を探してくれないか」
『…金田さん?』
金田の様子がおかしいことに気付いてか、のび太が訝しげに名前を呼んでくる。
「残念だが。保健室にはもう、戻ってこない方がいい。…どうせ君達が来る頃には、間に合わない」
ぐにゃり、と空間が歪み。闇色の靄が、人の姿を形作る。真っ赤なドレス。茶色の髪に真っ赤な瞳とルージュ。
金田本人は彼女に会うのは初めてだったが、理解するには充分だった。
目の前にいるのは、魔女だと。
「お前が…健治君を殺したアルルネシアとかいう魔女か」
それが正しいと言わんばかりに、魔女はニヤリと嗤う。
インカムの向こうから、のび太や綱海の驚く声が聞こえていたが金田は答えなかった。感度を上げ、自分達の会話がなるべく聴こえるようにする。
アルルネシアが何の目的で自分の目の前に現れたかは分からない。
しかし、うまく会話を誘導すれば有益な情報を口にしてくれるかもしれない。この事件の真相。彼女の目的。訊きたいことは山ほどある。
しかし、何よりも。
「何故だ。…何故あの子を殺した」
怒りが。憎悪が。溢れ出しそうになるのを、必死で抑えこまなければならなかった。
恐怖さえ忘れてしまいそうだった。いなくなった愛する家族。失われた少年の命。悲しみが強ければ強いほど−−加速する。
とうしてこんなことをしたのか。何故こんな事が起きてしまったのか。疑問は、感情と一緒に溢れ出る。
「うふふ…何でかしらねぇ?」
アルルネシアは嫌らしい笑みを浮かべながら言った。
「ただ一つ忠告してあげるわ。魔女に無闇と何かを尋ねるのは愚かなことよ。魔女の最大の武器は言葉と真実なのだから」
「そりゃあ親切にどうも。…だが、あんたは私に用があるんだろう?私もあんたに用があるから丁度いいと思ってね」
彼女は自分を殺す気なのか。その可能性は高いだろう。逃げられるとも思えない。そして金田も、逃げる気はさらさら無かった。
年は重ねたが、まだまだ自分も青かったということだ。懸命な判断、無難な判断は出来そうにない。この魔女が−−憎い。
「質問に答えないつもりならそれでもいい。拷問してでも吐かせるまでだ」
ドスの効いた声で重ねると、魔女はわざとらしく両手を上げ、いかにも“びっくりしました”というアクションをとる。
「まぁ!こっわーい!!女相手に優しさの欠片もないなんて、ひっどいわぁ!!」
こいつ、絶対わざとやってるだろう。今の言葉だけでとんでもなくイライラを募らせてくれた。
自分で“女だから優しくしてね守ってね当たり前よね”といった態度をとってくる奴はそれだけで腹が立つものだが−−こいつはそれ以前の問題だろう。
何故ならば。
「残念だが、女以前に人間でもない奴に払う礼儀など無い。…あんたが魔女だから言ってるんじゃないぞ」
こんな悲劇を巻き起こして。罪なき子を辱めて、多くの人達の命を踏みにじって。今尚のび太達を苦しめ続けておいて。
自分は何も悪いことなどしていないと、愉快で仕方ないと言わんばかりに嗤ってみせる魔女。
人間じゃあない。
「お前の心が…その残酷さが!到底人間と呼べはしない…あんたを人間だなんて認めたら、それは人類全てへの冒涜に値する!!」
人の心を持っているならば、出来る筈がない。
出来ていいとは、思えない。
「…なるほど。面白い理屈ねぇ。でもあんたも分かってるんでしょう?人類はあんたが思うほど綺麗なもんじゃないわよ」
自らの髪を指に絡ませ、魔女は恍惚とした表情を浮かべる。
「あんた達は全部あたしのせいにして片付けたいようだけど…とんだ濡れ衣だわぁ。
だってTウイルスは元々この世界にあったもので、あたしがこの世界に来る前から研究されていたんだもの」
「知ってるさ。…だが最初は医学的な理由からだ。アンブレラはあくまで、筋ジストロフィーや癌を治療する手段としてウイルスを使うつもりだった筈だ」
情報という名の欠片が、アルルネシアの存在を軸にして繋がっていく。
金田は医者だ。医療知識ならば他の追随を許さないだろう。
だから分かる。ウイルスが正しく研究されていたら、医学界の地図が大きく変わることになっただろうという事は。
研究が煮え詰まる要素は確かにあったかもしれない。何かを突き詰めようとすれば、壁に突き当たるのは必然というもの。
しかし、それにしたって連中の方針転換は不自然すぎる。
行き止まりにぶつかった列車が、やけを起こして来た道を逆走して、他の車両さえ跳ね飛ばして進むようなものではないか。
それも、この女が手を出したせいではないのか。その可能性は極めて高い。
この女が現れなければ、ウイルスの研究が中止になることはあっても−−大量破壊兵器として流用される羽目にはならなかった筈だ、と。
「…お前じゃないのか」
人は誰しも悪意と欲を持つ。当たり前のことだ。でも。
「お前がアンブレラを唆したんじゃないのか!」
それを抑えて、理性で鍵をかけて殆どの者が生きている。
誰かの為に自分を抑えて、皆の幸せに繋がる行動が出来るのは人間だけだ。人間だけが持つ、美しい自己犠牲と常識なのだ。
それなのにこの女が。外からやってきて、抑えられていた彼らの理性の蓋を開けるような真似をしたのだとすれば。
「あらやだ、あたしはほんの少し…彼らをくすぐっただけよ?」
アルルネシアはいけしゃあしゃあとのたまった。
「そんな方法じゃ誰も救えないって絶望させてあげただけよぉ?
あんた達がどんなに頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張っても病に侵された人間はゴミ溜めで狂ったように苦しんで死ぬだけだと教えてあげただけよぉ?
誰もあんた達に感謝しないし、誰もあんた達を認めないし誰もあんた達を理解しないって分からせてあげただけよぉ?
こんな素敵なものこれじゃあ宝の持ち腐れだわ滑稽だわお金も足りないんでしょ本当は困ってるし苦しいしだから誰かに縋りたいけど誰にも助けてもらえないわけだから
本当にどうしようもなくて頭に浮かんだ可能性を否定しようとしたけど人間は汚いから無理無理無理無理無理でぇっ!
どうせなら全部ブチまけてひっくり返してウイルスを兵器にかえてゴミどもがのたうち回って逃げ惑って
死ぬのを見ながら美味しいワインでも見て楽しめばいいじゃないええそれが一番愉快で愉しいキモチイイのよ
兵器を売ればお金もたくさん手に入って贅沢できるし好きなことやりたい放題じゃないのそれが最善よ最適よ最高なのよ
分かってるのに見て見ぬフリしてイイ人ふるのやめたらぁって!一番愉しい事をすればいいでしょ
人間なんてゴミどんなに死んでもいいじゃないあたしが赦してあげるわ認めてあげるわ
愛して欲しかったらそうするのが一番イイに決まってるでしょぉ絶頂したいでしょ
あたしだけがワカルワカルワカルワカッてあげるのよさあさあさあさあブチ壊せぇぇってねぇぇぇ!!」
早口で、一息に。吐き出される言葉は腐った生ゴミの臭いがした。排泄物と内臓に蛆が集るような見たくもない色をしていた。
覚悟を決めて対峙した筈の金田でさえ、気圧されるほどの。それは、狂気。
それは、人間の中の最も醜く原始的な−−。
「お前は…狂っている」
本気で吐き気を催すほどの、悪意の塊。こんなものがこの世に存在するなんて知らなかった。
知りたくなかった。
「…魔女の言葉には力がある…か。そうやって貴様は自分の悪意を、欲望を、研究者達に埋め込んで狂わせたのか。
病気の人を救いたいと、その為に努力を惜しまなかった者達を…貴様が!」
なんて酷い。否、酷いなんてものじゃない。
アンブレラにさえ、本当の意味では罪など無かったのだ。
勿論大企業の闇はあっただろう。しかし彼らはあくまで、誰かの幸せを願う為に研究していた筈だったのに。
全てを悪戯に黒く塗りつぶしたのは−−紛れもなく。
「確かに人間には醜くところがあるだろう。
殺し合い他者を否定し、何かを奪い合って生きるのは人の業だろう…だが!」
この女は理解しないし、しようともしないだろう。
だが金田は言わずにはいられなかった。一人の人間としての怒りとプライドが言わせていた。
「私は知った…こんな地獄のような場所でも、人は人を救おうとすると。それが出来ると!」
友達を、当たり前のように信じる事が出来るのび太。
大切な人の為に戦うことを決めたのび太。
人生の最期を、友を守って飾ることを決めた安雄。
最期まで、仲間達の未来を案じていた健治。
「それが人間としての誇り…希望!そして化け物の貴様がけして持ちえない武器だ。
人間を馬鹿にするのも大概にしろ。私を殺したいならそうすればいい。けれど…それでのび太君達の心まで折れると思ったら大間違いだ!」
彼らの誇りは。自分達の想いは。
たとえ魔女だろうと汚せはしない。
「威勢がいいのは結構なことよ。どうせ貴方はここで死ぬんだしね」
アルルネシアはふんと鼻を鳴らし、手を叩いた。すると彼女の周りに、無数の蝙蝠が出現する。
ポスタル。あの厄介極まりないB.O.Wを思い出す。なんとこの狭い保健室で、魔女はあの化け物を解放する気なのだ。
「のび太君は必ずあたしが手に入れる。あの子を追い詰める為に、外堀は早いところ埋めないとね」
「…その為に健治君を殺したのか」
「まああの子の場合はそれだけじゃないけどねぇ」
そんなことの為に、あの子は。ギリ、と奥歯を噛み締める金田。
今ハッキリと分かった。こいつの目的は、実にシンプルなものなのだと。
「こんな愉しいお祭り、誰にも邪魔されてなるもんですか。
あたしはもっともって楽しみたいのよ…特に可愛い男の子達が絶望する顔を見るのは最高だものォ!!」
蝙蝠達が、アルルネシアの言葉を皮切りに襲いかかってくる。あれに噛みつかれたら血を一滴残らず吸い付くされるか、肉を噛みちぎられるかだ。
インカムから悲鳴が聞こえている。金田の現状を知った子供達が叫んでいる。
金田は微笑んだ。優しい子達。彼らの行く末を、彼らが作る明日を見てみたかった。それができなくなったのは残念だったけれど。
「…絶望に、悪意に負けるなよ」
金田は刃物を構え、蝙蝠達をなぎはらいながら言った。
「君達は…私にとっても希望なのだからね」
最期まで立ち向かってやる。けして魔女を楽しませない。屈しない。これが金田正宗、最期の晴れ舞台だ。
「人間をナメるなぁぁ魔女ッ!!」
運命を打ち破れ。小さな風穴でも、きっと意味はあるのだから。
第六十九話
舞台
〜汚せぬ散り際〜
それでも人は、立ち向かう。