−−西暦1995年8月、小学校校舎・一階男子便所。
ゾンビ達を観察して分かったことがある。連中はけして頭が良くない。視界に入らなければ、戦わずしてやり過ごす事も可能らしい。
あと、奴らが人を襲うのはあくまで食糧にする為のようだ。どうやら肉であれば人でなくとも構わないらしい。
猫の死骸を必死になって食い漁っている様を見てのび太はまた吐きそうになった。だいぶ死体には慣れてはきたが、それでも生理的嫌悪は残っているようだ。
廊下でなんとか徘徊するゾンビをやり過ごし、トイレのドアを開ける。
駆け込みたいのは山々だが中がゾンビの巣窟になってないとは限らない。廊下の奴らに気付かれる前に手早く、かつ慎重に進まなければ。
「うっ…」
ドアを開けた途端、酷い異臭がした。血の匂いが蔓延している。しかし腐臭はしない。動くモノの気配もない。
多分ゾンビはいない筈だ−−と信じて、のび太と太郎は内部に体を滑り込ませた。
「うう…イヤな匂い…」
「我慢してよ。僕も我慢するから」
生理的な涙を浮かべる太郎を引きずり、奥の個室へ押しやる。
手前に並んだ小便器の前よりは個室の方が安全と判断した為だ。
ここの個室には窓もないから、破って入られる心配もない。
「なるべく早く終わらせてね。早く帰らないとみんな心配するし」
自分も、怖いし。のび太はそんな言葉を飲み込む。いくら勇気を振り絞ったところで、根っこの負け犬根性は簡単には治らないものだ。
蛍光灯が半分割れているせいで薄暗い。昔見たホラー映画を思い出してしまい、身震いした。
「しっかり鍵はかけなよ。ゾンビに覗かれて喜ぶ趣味があるなら別だけど」
「そーゆーのって“どえむ”って言うんだよね、のび兄ちゃん」
「…何でそんな言葉知ってんのさ」
「健治兄ちゃんに教えて貰ったー!」
「………」
健治さんあーた、子供に何教えてるんですか。のび太は頭が痛くなる。あの面々で数少ない常識人だと思った矢先にコレだ。
ため息をつきながら、のび太はトイレの奥へ歩いていく。並んだ小便器の向こう側に、人影がある。
ゾンビではないが生きた人間でもない。トイレに蔓延した死臭の原因。首のない死体が、座り込んでいた。
恐らく、警察官だったのだろう。青い制服は見覚えのあるものだ。膝を折り、だらんと力なく両腕を垂らしている。
首以外に目立った外傷はないようだった。首の傷の断面を見ないようにしながら、のび太はその腰あたりを探る。
我ながら肝の据わった行為というか。だが生存本能には代えられないのだ。
警察官ならば、何らかの武器を持っている可能性が高い。うまくすれば、彼らが調査したであろう異変に関する手がかりもだ。
「…ビンゴ」
種類は分からないが、拳銃一丁発見。予備の弾もそこそこある。有り難い。銃を貰わなかったメンバーに渡してやろう。
ついでに警察手帳と普通の手帳を拝借。パラパラと捲ってみる。
どうやらこの警官はなかなか優秀だったらしい。近隣の住民の一部を学校まで避難させていたようだ。
さらには、ゾンビ達の特徴もしっかりメモしてある。
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八月二日 十三時五分
化け物どもについていくつか分かった事があるのでメモしておく。奴らが元・人間だったらしい事は前述の通りだが、どうしてこうも増え続けるのか。
奴らに噛みつかれたり爪で傷つけられたりしてはいけない。自分も化け物になってしまう。
もしやこの現象はウイルスが原因なのだろうか。唾液などの体液が血中に入ると感染するとしか思えない。
私がまだ平気である事を考えると、少なくとも空気感染はなさそうだ。
ゾンビどもの内臓はほぼ腐敗している。何故“ほぼ”かというと、それだけでは説明しきれない点があるからだ。
胸に大穴を空けて平気で歩いている奴もいるし、手足がグチャグチャになっても動いてる奴もいる。だが脳だけは違う可能性がある。
高瀬巡査が一体の即頭部に銃弾を撃ち込んだところ、そのまま動かなくなった。
又、頸骨を折っても行動不能に出来るようだ。これは橋本警部補の話である。
我々に最低限必要なことは、奴らにけして噛まれないことと、これらの弱点を有効に突いて敵を撃退し市民を守る事だろう。
銃弾の数も限られている。今後はより慎重に動く必要がある。無駄な戦闘は極力避けるべきだろう。
皆川修二 巡査部長
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「…ウイルスだって?」
眉を顰めるのび太。そういえばヒロトは言っていた−−これはバイオハザード、生物災害だと。
ウイルスも一応は“生物”だ。という事は彼はこの騒ぎがウイルスのせいだと知っていたのだろうか。
後で彼に確認する必要はあるが−−これがもしウイルスで起きた騒ぎなら、説明がつく事が多いのも確かだった。
一番最初にウイルスの発生源となる“何か”があって−−仮にそれがウイルスに感染した鼠か何かだったとして。
それがあちこちに接触した結果ウイルス感染者−−アンデット達が激増したのだとしたら。
問題はその発生源となる“何か”が何であるかということと。
そんなウイルスが何故学校(ヒロトの推察が正しかったと仮定してだが)にあったのかということ。
今まで平穏無事だったススキヶ原が突然地獄と化したのはどうしてかという事だ。
−−…このお巡りさんのメモが正しいなら。僕達も今後…あの化け物みたいのになる可能性があるってこと…?
ぞっとする。ある意味、奴らに食い殺される以上の恐怖だった
あんな腐った化け物になり、自ら死ぬこともできず、延々とさ迷うだなんて。そんなの、絶対に嫌だ。
「…ところで太郎。ちょっとトイレ長すぎない?」
もしやお腹でも壊したのだろうか。心配になってのび太がドアをノックすると。
「ど、ドアが開かない…」
「え゛…」
「ど、どしよ…」
中から、太郎の困り果てた声。どうやら建て付けが悪かったらしい。
確かにボロい学校だしこんな事がなくても汚いトイレである事は間違いないが。
だからってこんな非常時に面倒を増やしてくれなくたっていいではないか。
多分、鍵穴がズレて開きにくくなっているだけだろう。
こういう場合はドアを上に持ち上げるようにしながらロックを外せば開く事が多いが、非力な太郎には難しいかもしれない。
手を貸そうとのび太が扉に手をかけた、その時だった。
ぎっ。
別の方向から、軋む音。
「!」
一気に緊張が走る。個室のドアは鍵がかかるが、男子便所自体のドアに鍵は別。
だから、誰かが開けようとすれば簡単にドアは、開く。
「…太郎。もうちょっとそこにいてね」
「え?」
「……お客さんみたいだ」
そうでなければいい。“人間の”お客さんなら、犯罪者でもない限り歓迎しよう。
しかし、残念ながらそこにいるのは“人ならざるモノ”であるようだ。
曇硝子に映る影が、明らかに可笑しい。人間の体にしては歪すぎる。
さあ皆さん大好きなシルエットクイズですよ、ドアの向こうにいるのは誰でしょう?
残念無念、その問題自体が間違ってます。そこにいるのは“誰”ではなくて“何”ですよっと。
−−戦うしかない。
のび太はヘルブレイズ・改・Z型の撃鉄を起こし、構える。軽い銃なのに、急に重量を増したような錯覚を受ける。
握りしめた手が汗で滑る。背筋がひんやりして、なのに心臓は煮えたぎるように熱い。
袋小路。太郎もいる。逃げるという選択肢はない。自分が戦わなければ、自分も太郎もこの場で殺される事だろう。
−−怖い…凄く怖い…っ!でも…。
恐怖から滲む涙をぐいぐいと袖で握る。入口のドアがゆっくり開いていく。
ドアの隙間から這い出してくるのは、骨が露出し腐敗した指。明らかに本数も足りていない。
「…生きるんだ」
亡者だらけの景色。地獄のような世界。家族さえ失ったこんな場所で、それでもまだ自分は生きたいと願っている。
ならば生きるしかない。何がなんでも。
「来るなら来いっ…ゾンビ野郎ッ!!」
ドアが開き、ゾンビがぬっと顔を出した。この学校の職員だったのかもしれない。
グレーのスーツを着たその男は、肩に包丁が突き刺さったまま歩いていた。
指があちこち欠損した両手には蛆が這っている。大きく裂けた胸の傷からは肋骨と、ピクリとも動かない心臓が露出していた。
生きている筈がない。なのにこうして動いている、アンデット達。これがウイルスの仕業だというなら、あまりにも惨たらしすぎる。
「はっ…!」
息を詰め、のび太は引き金を引いた。ゾンビ職員の左の眼球が潰れ、血とも硝液ともつかぬ粘液が吹き出した。
その体がどうっと音を立てて倒れる。どうやら脳を破壊することが出来たらしい。
頭を撃ち抜けばアンデットといえど無効化が可能−−警官の手記を見つけていなければ危なかった。
「げっ…!」
残念ながらお客さんは一人では無かったらしい。倒れた職員を踏み越えてもう一体ゾンビが入ってきた。
割烹着を着ているあたり、給食室のおばさんか。白い割烹着を血でまだらに染めた彼女は右耳と右腕が引きちぎれている。
つい焦って狙いがぶれた。弾は割烹着ゾンビの膝を貫く。がくん、と一瞬バランスを崩したが、彼女は倒れない。
生きていれば悶絶どころではないだろうに、砕けた足を引きずりながらズルズルと歩み寄ってくる。
やはり脳か頸骨を狙わなければダメらしい。なんとか落ち着いて銃を構え直すのび太。自分の腕なら出来る。動揺さえしなければ外したりするものか。
割烹着ゾンビの後ろには、もう一人老人らしき姿のゾンビが迫ってきている。
時間をかけてはいられない。のび太は二発立て続けに撃った。
割烹着ゾンビの頭の二カ所から脳味噌の欠片が飛び、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。
残るはあと一人。のび太は老人の首に狙いを定める。頭をゆらゆら揺らす老人は、額より頸骨を狙った方が確実と判断した為だ。
「ラスト…!」
意を決して、二発を撃ち込んだ。アンデットが奇怪な呻き声を上げる。
老人の首がごきりと音を立てて有り得ない方に曲がり、折れた。腐った体液が吹き出す。
老人は踊るようによろめいた後、割烹着ゾンビの死骸の上に倒れ込んだ。
「お…終わっ…た?」
再び、静寂が戻る。開かれたドアの向こうに、今のところ新手はいない。一気に緊張が解け、のび太は床に座り込んだ。
「た、太郎…終わった。今開けたげるから…ちょっと待ってて」
「え、のび兄ちゃんどうしたの?」
「だ、大丈夫…」
安心したら腰が抜けてしまった。初めて撃った銃。人を殺せる武器の重み。
それでもこんな自分が三体ものゾンビを相手に、か弱い子供と自らを守りきったのだ。
大丈夫。言い聞かせるように、のび太は繰り返す。なんとか、最初の課題はクリアできた。あとはどこまで突き進めるかだけだ。
立ち向かうしかない。たとえそれが、どんな過酷な現実を前にすることだとしても。
第七話
証明
〜レーゾンデートル〜
誰にも、揺らがせはしない。