−−西暦1995年8月、学校校舎・3F廊下。

 

 

 インカムから、金田の覚悟を決めたような声。さらには、スネ夫の悲鳴に近い声。

何が起きたのか、綱海が理解するには充分だった。

 

−−相変わらず下衆野郎だぜ…っ!

 

 綱海は唇を噛み締め、すぐ様走り出していた。

あの女は、のび太を追い詰める為一人ずつに分断して消していくつもりなのだ。

 何故そこまでアルルネシアがのび太に拘るのかは分からない。

確かなのは、このままでは金田も聖奈も命がないという事だ。

 

「おい聖奈!応答しろっ!」

 

 インカムに向けて、叫ぶ。

 

「そいつは緑川じゃねぇ!リュウジの奴がそこにいる筈ないんだよ!おいっ」

 

 自分はついさっきまでリュウジと話していた。彼はまだ三階か二階のどこかにいる筈だ。

1階には降りていないし、ましてやまだ聖奈の前に現れる気などない筈である。

 ならばそれが示すのは一つ。リュウジの姿を模した偽物。聖奈を保健室から出す為に、アルルネシアが仕組んだ罠に違いない。

 だがさっきまで通じていた筈のインカムからは、耳の痛いノイズしか聞こえなかった。

どうやらどこからか妨害電波が出ているらしい。綱海はリュウジと話せる携帯を持っていたが、こちらは圏外になっていた。

あからさまな妨害工作である。電波を阻害する何かを魔女は送り込んできたらしい。用意周到なことである。

 しかも。

 

「俺への足止めも完璧ってか」

 

 階段の手前で、綱海は足を止めざるをえなかった。目の前に闇が膨れ上がる。

やがてそれは、綱海がこの世で一番見たくない姿を作り上げた。

真っ赤なドレス。真っ赤なルージュ。真っ赤な瞳。全身に血の色を纏った魔女が。

 

「ご機嫌よう、海竜の使者…綱海条介」

 

 アルルネシアはにこりと、何も知らない人間からすれば絆されてしまいそうな笑みを浮かべて言った。

「一年ぶりかしら。久しぶり顔が見れて嬉しいわ。円堂クンやみんなは元気?」

「はっ…元気だぜ。お前の顔見たら一気にテンション下がっちまったけどな」

「それは残念だわ。あたしはもっと貴方達に楽しんで欲しいだけのに」

 相変わらずいけしゃあしゃあと心にもない事を言う。他人の悲しみや苦しみ、憎悪や悪意を生きがいにするのがこの魔女だ。

彼女の“楽しい”はつまり一般的に見て“吐き気がする”ことばかりである。

 災禍の魔女。この女の存在そのものが悪夢にして災厄だ。

というかこいつを魔女と呼んだら他の魔女達に失礼ではなかろうか。これほどまでに残酷で、掟破りで、悪意に満ちた存在を他に知らない。

 

「今お前と遊んでる暇ねぇんだけどな。ってか」

 

 ギッとアルルネシアを睨みつけ、綱海は言う。

 

「お前も俺と遊ぶ気は無いんだろうが。…分身だろ?本体はどこにいるんだよ」

 

 いっそ目の前に現れたのが本物のアルルネシアなら良かった。

綱海一人で倒せる相手ではないが、自分とて百戦錬磨の戦士。魔女の足止めをして時間を稼ぎ、逃げるくらいは出来るのだ。

 だが綱海は気付いていた。目の前にいるのが、アルルネシアの“影”に過ぎないことを。

つまり本体はどこか別の場所で“お仕事中”なのである。

 

「教えて欲しい?欲しい?だったら欲しえてアゲナーイ!きゃははははっ!」

 

 影のアルルネシアは、相変わらずのキンキン声で高笑いで、その手に金のハンマーを現した。

 綱海は身構える。本物でないなら、自分でも倒す事が可能だろう。

だが、偽物で体力や魔力が本人に劣るとはいえ、本人と同じ魔法を使ってくるのは確かだ。手強いのは間違いない。

一刻も早く聖奈や金田を助けに行きたい綱海にとっては、腹立たしいことこの上ない。

 

「ふふ…貴方を簡単に倒せるとは思ってないわ。だから安心して?一応、今は殺さないでいてあげるつもりよ…貴方はね」

 

 魔女の分身はニタニタと嗤う。

 

「でも他の子達は駄目。金田と聖奈の二人はたっぷり遊んであげるわぁ。

貴方は絶対に間に合わない。後で二人の死体を見つけて、いっぱいいっぱい泣き叫んで頂戴な」

 

 死ね。失せろ。黙れ。くたばれ。殺してやる。あらゆる罵倒が頭に浮かんだが、綱海はぐっと押し込めた。

いくら魔女にものを言ったところで無駄なのだ。むしろ自分が憎悪を露わにすればするほどアルルネシアを喜ばせるだけ。

 こいつは根本的に頭がイカレてる。狂ってる。言葉を交わすだけ無意味なのだ。

 

「さぁさおいでなさい。呪いを届けなさい。全てを無に帰す赤子…ウーズ!」

 

 召喚の呪文。分身アルルネシアの声に答え、現れたのは−−ドロドロに溶けた真っ赤な物体だった。

そう、物体としか言いようがない。果たしてこれは生物と呼んでいいものなのだろうか。

しかし血の塊のような、さながら半透明のスライムのようなそれには、ギラギラ光る目のようなものがついていた。

 アルルネシアの背丈ほどもあるそのスライムは、じゅうじゅうと鉄板で肉を焼くような音を立てながら、綱海に近づいてきた。

「この子はウーズっていうの。元は、堕胎された水子を呪術師が呼び戻し、地獄の象の膿に寄生させたものなのよねぇ。

生まれられなかった未練と憎悪から、醜い姿しか貰えなかった無念から…全てを飲み込もうとする魔物よ。

召喚したあたしの命令しか聞かないわ。何より…アナタの一番苦手な相手だと思ったのよねぇ」

「…少しは黙れよ、雌豚がっ」

 魔女の台詞が終わるか否かといったところで、ウーズが飛びかかってきた。

綱海が避けたことで、スライムはべちゃりと壁に張り付く。すると白い煙が上がって、ウーズの触れた壁が溶けた。

 どうやらこいつの体は、強酸性の粘液で出来ているらしい。手で触れたらその時点でアウト。火傷で済まないのは目に見えている。

 

「なら…これだ!ツナミ・ブースト!!

 

 決断するのは早かった。綱海は黒いサッカーボールを取り出すと、思い切り蹴り飛ばしたのである。

ボールは溶けてしまうだろうから、ウーズ本体を直接は狙えない。だが余波の水流だけでも充分な威力がある筈だ。

 キィ、と水圧の一撃を食らったスライムが鳴く。

しかし次の瞬間、綱海は己の判断ミスを悟った。水が引いたその時、ウーズの姿も消えていた為である。

 

−−まさか…水に溶けて…!?

 

 確かにウーズは液体だ。水に溶けて、壁や床に染み込む事も出来るかもしれない。

大抵の敵はそんな暇もなく水圧でバラバラの粉々になるので、その先のことなど考えもしなかった。

自分の迂闊さを今更呪ってもどうしようもない。

 

「ウーズはどこにでも溶けて、身を隠すことが出来るわ。…水を操る貴方にとっては天敵よね」

 

 魔女の分身がさも愉快そうに嗤う。綱海は足元から頭上に至るまで警戒する羽目になった。

一滴、頭から垂らされるだけで致命的なダメージを食うだろう。

背中を冷たい汗が伝う。攻撃を食う前に察知して避けるしかない。だがどこから来る?奴はどこから仕掛けてくる?

 

「あら。もしかして貴方もここで終わっちゃうかしらぁ?」

 

 はっと顔を上げた。綱海の見上げた先。目の前には真っ赤なシミが−−。

 

「さよなら、綱海ちゃん」

 

 目の前が真っ赤に染まる。肉の焦げる音と、己の絶叫を、綱海はどこか遠くで聴いた。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、学校校舎・2F視聴覚室。

 

 

 

 足音はすぐ傍で聞こえている気がするのに、一向に追いつけない。まるで一人相撲をとっているかのようだ。

このままではどんどん金田のいる保健室から離れてしまう。焦りながらも、聖奈は階段を上がり2階に到達していた。

 ガラッと引き戸を開ける音。廊下から消える、ポニーテールの端が見えた。視聴覚室と書かれたプレートがある。聖奈は迷わずそこに飛び込んだ。

 

「リュウジ君!」

 

 部屋の中は薄暗く、よく見えない。何故電気をつけないのだろう。そう思いつつ、スイッチを探した。

この学校は聖奈の卒業校でもある。見たところ自分が卒業した頃から大きく変わったところは少ない。

記憶が正しければ、スイッチは少し面倒な場所にあった筈だ。

 

−−昔は苦労したなぁ。…何で先生達、スイッチの前にテレビなんか置いちゃったんだろ。

 

 ブラウン管の裏を探る。小学生時代背の小さかった聖奈は手が届かず、友達に手伝って貰ったのだ。

コンセントの位置もあるだろうがもう少し配慮してくれてもいいのに−−と先生を恨めしく思ったのが、まるで昨日の事のように思い出せる。

 カチリ、と手応え。明かりがつき、ほっとする。

規則的に並んだ椅子の間や教卓の前には、例にも漏れず化け物や人間の死体が転がっていたが−−もう驚きもしなかった。

慣れてしまったようだ−−自分も。思い知り、ほとほと嫌になる。

 緑川リュウジは。部屋の中央に、背を向けて立っていた。どうしたんだろう。聖奈がそう思っていると。

 

「ねぇ、聖奈」

 

 彼の方から口を開いた。

 

「どうして君は…生きてるのかな」

 

 あまりに唐突な言葉に、聖奈は面食らう。淡々とした声。まるで感情を削ぎ落としたかのような言葉に違和感を覚えた。

自分の知る緑川リュウジという少年は、良くも悪くも感情がすぐ顔に出るタイプだ。

くるくるころころとよく笑い、よく怒り、よく泣き−−と泣くのは殆ど嘘泣きだった気がするけれど−−とにかくそんな子供だったのだ。

 それなのに。

 

「だってさ。頑張って生き残ったって仕方ないじゃない。家族も死んじゃって…町は化け物だらけ。

今は奇跡的に町の中だけで済んでるけど、いずれウイルスは日本中に広がるよ?下水にだってウイルスは溶けるんだからね」

 

 淡々とした口調。諦めを助長するような内容。

 

「君もそのうち思うんじゃないかな。生きてたって無駄だって。

むしろ…さっさと自殺した方が幸せだったんじゃないか。地獄を見ずに済んだんじゃないかって」

 

 体が、震えた。リュウジの言葉は、聖奈が心の隅に追いやった筈の感情を、呼び起こさせるものだった。

 そうだ。自分だって最初は思った。何で生きてるんだろう。早く死んでしまえば良かった。そうすれば悲しい思いをせずに済んだ筈だ−−と。

 だけど。

 

「ねぇ。何で生きるの?仲間の手前、みっともない事出来ないから?安いプライドだねぇ」

 

 毒のようなリュウジの言葉を−−聖奈は溜め息一つで払った。

リュウジの言う事は間違ってない。自分は弱い。今だって本当は怖い。生きるのも死ぬのも怖い。

 でも。今生きているのは−−それだけじゃ、ない。

 

「プライド…?いいえ、違いますよリュウジ君。意地って言った方が正しい」

 

 怒りだ。これは。

 

「私…滅茶苦茶怒ってるんです。こんな馬鹿馬鹿しいシナリオを書いた誰かさんに。

健治さんや安雄君を死へ追いやったもの全てに」

 

 実はかなり短気な己を、聖奈自身だけが知っている。

 

 

 

「あまつさえ…リュウジ君の姿で私を騙そうとするなんて。…人をナメるのも大概にしろよ!!

 

 

 

 こいつはリュウジじゃない。確信を持って、聖奈は彼に銃を向けた。

 

「戦いましょう?小細工なんて使わず正々堂々とね!!

 

七十

妨害

りきりのレクイエム〜

 

 

 

 

 

人としての怒りを胸に。