最初は−−とにかく、アルルネシアを倒すことが、ヒロトの全てだった。

のび太達が死んでもいいと思っていたわけじゃない。

むしろ多少荒い手を使っても生き残らせる腹づもりではあったが。それはあくまで、彼らを利用する為だった。

 ヒロト個人としては、思うことがなかった訳じゃない。

アルルネシアに虐げられた子供達に同情はあったし、彼らの精神的負担を少しでも減らしてやれたらという気持ちはあった。

しかしそういった個人的な甘さは、仕事においては切って捨てなければならない。

アルルネシアとの長きに渡る戦いが幕を開けた時−−立ち向かうと決めた時。自分は誓ったのだから。どんな犠牲を払っても、魔女を倒すと。

 そう。

 その筈だったのに。

 

「どんな場所にでも勇者はいる。太陽のような人が、必ずいる」

 

 ふふっ、とヒロトは苦笑して言った。

 

「……分かってたんだけどね。魅せられた時点で、俺達は負けてたんだ……のび太君に」

 

 場所は給食室。綱海を探しに来たヒロトは、この冷凍庫の扉の前に辿り着いていた。

メモリはマイナス20℃を差している。そしてこの扉は−−押しても引いても、開く気配がない。

 

「最初は全然似てないと思ったのに。……のび太君も円堂君と同じ、太陽だったんだ。

同じなんだよ。だってのび太君は、誰かを信じるのに躊躇いなんてないんだから」

 

 かつて−−ヒロトがただの人間だった頃。自分達もまた、魔女の牢獄に捕らわれていた。

アルルネシアの人形と化した義父に気付かず、その愛情を得る為だけに−−山のような罪と、山のような屍を築いたのだ。

 ただ愛されたかっただけだった。

 ただ必要とされたかっただけ。

 捨て子だった自分にとって、義父の存在は全てだった。自分だけではなく、仲間達にとってもそう。

あの人の為なら何だって出来た。出来なければならなかった。

−−心から笑う手段を、流す涙を。幸せを。忘れていた事に気付かせてくれたのは、円堂守。

のび太のように、気がつけばみんなが彼の友達になりたいと−−そう願ってしまうような。生きた太陽で、白き魔術師だった。

 

「本当に辛い時…手を差し出してくれる人に出逢った。その人の傍で奇跡を見られた。

……こんなに幸せな事はないよね。なんてったって俺達は二度もそんな人に出逢えたんだから」

 

 この世界に来て良かったと、心から思う。その時点で既に、仕事人としての非情さを持てなくなってしまったわけだが。

 きっと、それで良かったんだろう。これでやっと、心置きなく戦える。魔女を倒す事は大事だが、今はそれ以上に−−のび太達の幸せの為に、戦うことができる。

 そのなんと満ち足りたことか。

 

「……すっげぇ、残念だわ」

 

 扉の向こうから、綱海の声がした。

 

「俺ももうちょい、のび太と話しとくんだったなあ」

 

 綱海から既に話は聞いていた。魔女の召喚した怪物を倒す為に、この冷凍庫に追い込んだこと。

結果怪物は倒せたが、冷凍庫から出られなくなってしまったことを。

 確かに仕組みとして、外からしか開かない構造ではあったのだろう。しかし、外にいるヒロトからもこの扉は開かなくなってしまっている。

 原因は明白だった。扉いっぱいに描かれた−−真っ赤な魔法陣。それは強力な封印。

アルルネシアは綱海が冷凍庫に入るのを見て、この扉に結界を張ったのだ。

 時間さえかければ、ヒロトにならば破れない結界ではないだろう。だがその前に綱海がどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。

今は夏。薄いシャツ一枚とジーンズしか綱海は着ていない上、怪我までしている。残念ながら、間に合いそうにない。

 

「もう少し後先考えようよ、綱海君」

 

 ヒロトはため息混じりに言った。

 

「これ……知ったら円堂君に滅茶苦茶怒られるよ?いくら本当に死ぬわけじゃないからって」

 

 もしこれがヒロト達のいた世界なら。あるいはここ以外の“普通”の世界なら。綱海は本当の意味で、死ぬことになっただろう。

 しかし此処は幸か不幸か“普通”の世界では−−ない。例えるならば自分達はチェスボードに並べられた駒なのだ。

だからゲームに負ければ盤の外に取り除かれてしまうが、駒そのものが破損したわけではない。

この世界で死を迎えれば、強制的に、世界の外に弾き出されるというわけだ。

 ただややこしいのは、それはあくまで盤の外から来た存在である、ヒロト、リュウジ、綱海にのみ適応されるルールということ。

のび太達にとってはこれが紛うことなき現実なのだ。彼らの死は、盤上に限定された死では−−ない。

だから盤の外から増やされた駒であるヒロト達が仮にあらゆる魔法を使えたところで、健治や安雄を生き返らせる事は出来ないのだ。

「俺達はあくまで“今回限り”の登場であるエキストラ。二度目はない。

君が心配をかけたのも間違いないし……強制退去になったらもう、この世界に戻ってこれないのは確かなんだからね」

「はは、めんどいよなあ……このルール」

 綱海の声に、どんどん覇気がなくなってくる。本当ならば、さっさと自殺でもなんでもした方が楽だろうに。それが出来ないのが、綱海という男だ。

 

「お前……いつから気付いてたんだよ。この世界が“箱庭”の中にあるってこと」

 

 俺は最初全然気付かなかったぜ、と綱海。

「夢であって夢じゃない。現実であって現実じゃない。リュウジに言われてやっと理解したよ。あいつがどれだけ酷い地獄の中にいるのかが」

「…そうだね」

 ヒロトは扉の前に座り込む。

 

「彼がもっと…弱い人間だったら。こんなにも苦しむ事は無かっただろうに」

 

 諦められるくらい大人だったら。

 諦めてしまえるほど脆かったなら。

 そんな仮定をしても仕方ない。現に彼は諦められないから足掻いている。諦められないから、縋ってしまう。

「違和感は最初から感じてた。でも、俺だって確信を得たのはついさっきなんだよ。

…最初はアルルネシアの仕業だと思ったけど違ってた。

あの魔女はあくまでチェス盤の外から来て、盤上をしっちゃかめっちゃか荒らしていっただけだ。…チェスボードを創った者は、別にいる」

「で…そのチェスボードで対戦してるメタ世界の住人がいるって…?」

「多分それも違う。というか、綱海が想像してるのとはだいぶ状況が違うと思うよ。無限の魔術師と黄金の魔術のチェスゲームとこれは、根本的に違う」

「へぇ…どんな風に?」

「…チェスというより。詰め将棋かもしれないってこと。たった一人で、延々と将棋の駒を並べているんじゃないかと俺は思うね。…あぁ、正確には“一人”じゃないか」

 ただ。対戦相手がいない事だけは−−ほぼ間違いない。それは下手をすればこのゲームに終わりがないかもしれないということだ。

 並べている人間が納得するまで、将棋は続くのである。納得出来る、美しい寄付が出来上がるまで、永遠に。

それは気が遠くなるほどの年月である筈だ。理想が高ければ高いほど終わりは遠のく。

諦めない限り、誰かがプレイヤーを殺しにでも来てくれない限り−−彼は、冷たい椅子の上から逃げられないのだ。

 気がおかしくなりそうだ。想像するだけでぞっとする。自分ならきっと耐えられない、とヒロトは体を震わせた。

 

「そうか……そうか。まあ、俺も…理解出来たよ。…確かに、チェスより将棋って言った方が…しっくり来るな」

 

 だいぶ弱々しくなった声で、綱海は言った。

 

「迷路を創った本人が、出口を知らなくて迷ってるわけだ。…最悪な状況だよな」

 

 以前こんな詩を読んだことがある。迷路の中で迷い続ける少女の嘆きを読んだ詩だ。

 いわく。一番不幸だったのは少女。何故ならこの迷路に出口がないことを知っていたから。

 いわく。二番目に不幸だったのは少年。この迷路に出口がないことを知らなかったから。

 そして。二人以外の全ての人は不幸っはなかったのだという。何故なら、自分達が迷路の中にいることさえ自覚していなかったから。

 彼は一番目と二番目のどちらなのだろう。

迷路にいることは知っている。出口がないかもしれないことも薄々気づいていて−−それで見て見ぬ振りをしているのかもしれない。

 

「最悪?…そうだね。最初はそうだったかもしれない」

 

 ヒロトは天井を仰ぐ。

 

「でも俺は。全部が魔女のシナリオ通りじゃない筈だって…そう信じてるよ」

 

 安雄や健治の死は、史実に組み込まれた運命だったかもしれない。運命の示すまま、定められた悲劇から逃げられたかった結果なのかもしれない。

 だけど。それだけではない筈だ。ほんの些細なことが変わっただけで、未来は大きく色を変える。

犠牲者が出た時点で彼の理想図ではなくなってしまったかもしれないが、これは本当最悪の未来だったのだろうか。

 少なくとも。のび太や静香は諦めていない。嘆きながら、膝を突きながらもまだ未来を諦めていない。

自分達は知っている。本当の絶望は、諦めた時に襲ってくるものだと。ならばまだ彼らは絶望に堕ちてはいない筈だ。

 ならばこれは。まだ希望を残している、新しい物語である筈なのだ。

 

「全ての物語には、必ず意味がある。…でも悲しみを繰り返すだけの夢は、終わりにしないといけない」

 

 終わりにしよう。

 全ての悲しい事を。悪い夢を。

 

「アルルネシアを倒して、終わらせる。その為に俺達は此処にいるんだから」

 

 これ以上、子供達に涙を流させない為に。

 

「…悪いな、ヒロト。最期まで付き合ってやれなくて」

 

 ドアの向こう、綱海が笑った気配があった。

「あとはお前とリュウジに任せる。俺は一足先に退場させて貰うわ」

「任務失敗。瞳子姉さんに怒られておいで」

「それは…困る。瞳子監督地味に怖ぇもん」

 ヒロトの義理の姉の名前を出すと、綱海の声に苦い色が混じる。

クールビューティーな姉は、指導となるととことんスパルタになる。綱海でなくともビビるだろう。

 

「…お疲れ様、綱海」

 

 ヒロトは目を閉じる。

「ゆっくりお休み。…大丈夫。俺がちゃんと、のび太君達を守るから」

「おう、おやすみ」

 覚めない夢を。

 優しい眠りを。

 

「全部片づいたら、サッカーだ。…のび太達も、誘ってさぁ…」

 

 お互い、キチガイなまでのサッカー馬鹿だ。これも円堂の影響か。のび太達は野球の方がよくやるらしく、のび太はその打率と守備力の低さもあってライパチ王だなんて呼ばれているらしいが−−。

 せっかくだから、サッカーも布教してやろうと思う。自分達の誇る幸せの魔法を。みんなを笑顔にする魔法を。

 

「…世界は残酷だけど、でもとても美しい」

 

 綱海の声はもう聴こえない。ヒロトは顔を上げて、立ち上がった。まだやるべき事はたくさん残っている。ここで綱海が退場したのは予想外だったが。

 

「君もそれが分かってるから…今日まで頑張ってきたんだよね」

 

 今この場所にはいない彼に向けて、言葉を紡ぐ。

 繰り返す百年は、無駄ではない。

 少なくとも自分達に、その声は届いたのだから。

 

七十三

退場

〜嘆くより、ただを〜

 

 

 

 

 

エデンはまだ遠い、でも。