−−西暦1995年8月、学校校舎・2F視聴覚室。
我ながら運動神経が神業だ。あちこち擦りむきながらも、未だに一撃も食らっていない。
しかし、体力と精神力は別。死への恐怖は、聖奈の精神を秒刻みで削っていく。何時もより疲れ安いのは必然だ。
−−は…これじゃ、加奈子ちゃん達に笑われちゃうなぁ。
部活仲間で友達の加奈子。彼女が住んでいるのは練馬ではないから、多分まだ無事だろう。
親友というより、ライバルだった。ずけずけと物を言い、姉御肌の彼女は付き合っていて非常に楽だった。
そして彼女のアドバイスは最初こそ腹は立つものの、大抵的確なのである。
『聖奈さぁ、せっかく恵まれた体格とパワーがあるんだから、もっとそれを生かしなよ。あと走り込みが足りない。1セットマッチの中盤でへばっててどーすんだよ』
生まれつき背が高めの聖奈は、皆に意外と思われるかもしれないが力押しのテニスが得意だった。
長身から打ち下ろすサーブと、緩急をつけたプレイが武器である。
去年は県大会のベスト8まで行けた。今年こそは関東大会と、意気込んでいた矢先−−この事件は起きたのだ。
−−……持久走、嫌いだったんですもん。長々走るだけで辛いし退屈だし。
さりげなく、ランニングをサボッていた。今はそれを死ぬほど後悔している。
長距離で鍛えられるのは体力だけではない。精神力でもあると、今になって思い知らされている。
「グルル…」
ハンターが唸りながら、じりじり距離を詰めてくる。何発かは当てたが、こいつの装甲はなかなか堅い。
しかもいいところでブレインディモスの邪魔が入るのである。
「ふ…ふふ。貴方はランニング、サボらなかったんですかね。いい加減そっちもスタミナ切れして欲しいんですけど」
こいつは生まれもってのB.O.W。言葉が通じるかは怪しい。人の業で生まれた、人になれなかった怪物。そう思うと切なくなる。
悪いのはアンブレラとアルルネシアであって、彼(もしかしたら彼女かもしれないが)自身には何の罪もないというのに。
「シャアアッ!」
俺を忘れるな!と言わんばかりにブレインディモスが吠えた。酸の一撃を、椅子を使って防ぐ。
段々とわかってきた。この蚤型B.O.Wは、距離が遠いと酸を吐いて攻撃し、近付くと組み付きを狙ってくるのだ。
どちらも食らったら一巻の終わりだが、行動は至って単調にして単純である。パターンが読めてしまえばあとはどうという事もない。
問題はハンターの方。こいつも距離が離れれば飛びかかってきたりするが、多少の頭はあるのか必ずしもジャンプしてくるわけではない。
時々物を投げて攻撃してくる時もある。行動が読めない分厄介だった。
面倒なのはこの二体を同時に相手しなければならないということである。
二体で連携をとってくるわけではないが、片方に集中すれば片方への注意が疎かになる。そして一瞬の油断が、今は死に直結するのだ。
「しつこい、男は!」
早くケリをつけなければ。
「嫌われるんです、よっ!」
立て続けに引き金を引く聖奈。ブレインディモスが悲鳴を上げた。
足が二本ほどちぎれ飛ぶ。緑色の、明らかに哺乳類のそれとは違う体液が飛び散る。
これで多少機動力は削げた筈だ。しかし、今のだって本当は頭を狙ったのである。
自分の射撃の腕の残念さがほとほと嫌になる。テニスをやっていたおかげか、反動は少なくて済んでいるが。
−−動きを封じて…多少危険でも、近くから撃つしかない。
しっかり狙うには、それしかないだろう。残弾数にも限りはある。これ以上無駄撃ちするのはよろしくないだろう。
室内を見回す。何か。何か使えるものは無いか。
−−こいつらにチームワークなんかない。それも…うまく利用できれば…!
「そうだ…!」
目に止まったのは、窓にかかっている黒い暗幕。ここは視聴覚室ではないか。古典的だが使わないテはない。
「く…ぅぅっ!」
窓際に駆け寄り、力任せに暗幕を引っ張る。こういったものは簡単な金具だけで留まっている事が多い。
ましてやここはボロボロの公立校。多少設備が壊れても予算をケチる−−聖奈の在学中もそれでモメた事が何度もあったのだ。
錆び付いた金具はあっさり弾け飛んだ。勢い余って転ぶ聖奈。その間も、二体のB.O.Wは待ってくれない。
「来るなっ!」
牽制に一発。狙ってもいなかったのに、ハンターが顔のあたりを押さえてのけぞる。
何でも狙った時に当たらなくて狙わない時に当たるんだろうか。正直頭が痛い。
暗幕を適当に丸めて(それほど大きく無かったのが幸いした)走り出す。うまく誘導できればいいが、そこは賭。危ない橋を渡らずして勝利など有り得ないのだ。
−−よしっ!
ハンターとブレインディモスはまだ気付いていない。彼らは聖奈を挟み撃ちする位置に来た。
聖奈を挟んでの両端。窓際にハンター、廊下側にブレインディモス、真ん中に聖奈の図だ。
目視でブレインディモスと聖奈の距離は約3メートル。ただでさえ足をやられて動きが鈍いブレインディモスだ、この距離なら組み付きはしてこない。
聖奈はさながら闘牛士のように暗幕を広げた。表が黒、裏が赤のその布は分厚い。ブレインディモスとハンター、どちらの視界も大きく遮る。
「シャアアァァァッ!」
ブレインディモスが酸を吐きかけてきた。反対に、ハンターは聖奈目掛けて飛びかかってくる。聖奈は素早く暗幕を引き寄せ、真横に飛んだ。ブレインディモスの酸は、飛び込んできていたハンターを直撃する。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
顔面をもろに焼かれたハンターが悲鳴を上げた。
−−今だっ…!
追い討ちをかけるように、聖奈はハンターの頭から暗幕をかける。
激痛に加えて突然視界を奪われたハンターは、ただパニックになったようにもがくしかない。
チャンスは今。
聖奈は迷わず近づき、もがくハンターの頭のあたりに、ありったけの弾を撃ち込んだ。わずか1メートルにも満たないこの距離なら−−外さない。
化け物の断末魔が響く。ハンターの体は暫く痙攣した後、動かなくなった。
−−やった…倒した!
これで厄介なハンターは片付けた。あとはブレインディモスだけだ。聖奈はB.O.Wから距離を取り、発砲する。
けれど。
カチッ。カチッ。
「う…そ…!?」
引き金を引けども、弾は出ない。どうやら残弾を使い果たしてしまったらしい。数える手間を怠った己を、心底呪った。
予備のマガジンはまだあった筈だ。聖奈はスカートのポケットを探り、愕然とする。
確かに入れた筈だ。あと残り一つのマガジンが−−何故見つからないのか。
−−まさか…落としたの?
運が無いなんてレベルじゃない。銃なしでどう戦うと?
−−逃げるしかない……だけど。
聖奈は入口の引き戸を見やる。既に試したことだが、ドアは開かなくなっていた。化け物達が暴れたせいだ。少し歪んだだけだろうから、工夫と時間をかければ開けられないことはないだろう。
ただし。B.O.Wと二人っきりの部屋でそれをやるのは、自殺行為以外の何物でもない。部屋から出たければ、ブレインディモスを倒すしかなかったのに。
今はそのブレインディモスを倒せる武器が、ない。
−−いや…駄目だ、諦めるな。
聖奈はキッとB.O.Wを睨みつける。
−−自分は大丈夫だって…のび太君達にそう言ったんだもの。此処でやられたら格好悪すぎです。
方法はある。必ず、ある。ワンパターンな行動しかしないブレインディモスならば、絶対。
あとは自分に、度胸と覚悟があるかどうか、だ。
「…諦めるもんですか」
聖奈は椅子に手をかけ、振り上げる。
「諦めてたまるかあああああっ!」
そのまま、ブレインディモスに突進した。吐きかけられる酸は椅子でガードできる。一気に距離を詰め、ブレインディモスに向けて、椅子を打ち下ろした。
「うわああああっ!」
B.O.Wの体は堅い。簡単には壊せない。それでも聖奈の力任せの殴打に、B.O.Wが悲鳴を上げる。聖奈は手を休めない。何度も何度も何度も。ひたすら椅子で、化け物を殴りつける。
ブレインディモスに恨みはない。罪もない。だからこれは−−八つ当たり。殴れば殴るほど、忘れかけていた怒りが蘇り、頭の中が真っ赤になる。
世界は平等なんかじゃない。平等な世界なんてない。当たり前にそれを語る奴がいたら、そいつは怪しい新興宗教の教祖か、余程の世間知らずか、質の悪い詐欺師くらいだろう。
悲しいことだがどんな場所にも格差があり、差別がある。
しかし、心だけは平等でなければならない筈だ。何かを願い、怒り、悲しみ、愛す。その想いは何者にも汚せない。汚すことなど、赦されないのだ。
だが。アルルネシアは、この町の住人達から、命や平穏だけでなく心の自由まで奪い去ったのだ。
ウイルスに感染した者は死を押し付けられ、心さえ粉々に砕かれる。かつて愛した人さえ食らいつくす化け物に変えてしまう。そのなんと恐ろしく、罪深いことか。
赦せない。
聖奈の愛する町を、人を、心を。蹂躙しつくし、慰みものにしたあの魔女を−−絶対に許してなるものか。
「ギィィィッ!」
手が痺れてきた頃、漸く手応えがあった。ブレインディモスの頭の殻が割れ、緑色の中身が溢れ出す。
脳みそなのか、目玉なのか、血なのか肉なのか。
壊れ、砕けていくB.O.Wの顔面から飛び出すものは、もはや人間の要素を何一つ見つけられない色をしていた。
まともな抵抗一つできず、延々と強打され続けたB.O.Wの頭が、ついに陥没し、潰れた。
断末魔の悲鳴を上げ、ブレインディモスの足から力が抜ける。
聖奈はそこでやっと手を止めた。ブレインディモスの体は暫く痙攣し、そのまま動かなくなった。
「は…ははは」
手の感覚がないことに、今更ながら気付く。まさか椅子で化け物退治が出来てしまうとは。
体液まみれの掌に、聖奈は急に泣きたくなった。怖くなったのだ。
さっきまでの狂気じみた感情。あれほどの憎悪が自分の中にあり、それを制御できなくなっていた。それが堪らなく怖い。堪らなく−−悲しい。
「本当の化け物は…私の方なのかも、しれないですね…」
へたり込んだ、その時だ。
「ギャアアアス!」
「!!」
まさか。
聖奈は振り向く。視線の先、ピンク色の大きな物体が、四つ足で天井からぶら下がっていた。
−−リッカー!?まさか…どこから…っ。
間に合わないと、悟る。既にリッカーが大口を開けて迫っていた。聖奈のすぐ目の前に。
−−そんな…。勝てたと思ったのに…!
絶望が視界を覆う。景色がスローモーションのように映る−−これが人の死ぬ瞬間というヤツなのか。
聖奈に出来たのは、ただぎゅっと目を瞑ってうずくまる事だけだった。実際には何の意味もなくとも、本能がそうさせたのだ。
けれど。
待てど暮らせど、その瞬間は訪れなかった。
第七十四話
二人
〜近づけど、まだ遠く〜
諦めないこと、それだけが。