−−西暦1995年8月、学校校舎・1F保健室。

 

 

 

 のび太は立ち尽くしていた。隣では静香が絶句している。言葉など出ない。想像していた以上の光景が待っていたとなっては。

 保健室のドアは、上半分が曇り硝子になっている。だから開けなければ、中の詳しい様子など見えない。−−それでも。

 

「金田…さ…」

 

 中で−−大量に撒き散らされている、血。部屋の外からその様子が分かるほど なのだ、推して知るべしだろう。

 ドアを開ける事はもう、恐怖でしかない。それでも開けないわけにはいかない。震える静香の手を握りしめ、ドアノブに手をかける。

見たくない。信じたくない。そんな感情が伝わってか、ノブを握る手が何度か滑った。

 ドアが、開く。

 その向こうの地獄が−−晒される。

 

「うっ…!」

 

 鼻孔を鉄と生臭さが鋭く刺した。吐き気をこらえつつ、辺りを見回す。保健室の中は、床も壁も天井も−−血のシャワーを浴びたごとくの有り様だった。

薬品棚。ベッド。教員机。本棚。敷居のカーテン。

−−もうどれも、使いものにならないだろう。血を浴びただけでなく、嵐が過ぎ去ったかのごとく荒らされまくっている。

「金田さん…は……?」

「…わからない」

 しがみついてくる静香を愛しく思う。彼女の温もりが、のび太を落ち着かせてくれた。

 部屋の中には大量の血痕しかない。金田らしき遺体も、B.O.Wらしき死骸もなかった。

血だまりの中に肉片らしきものは落ちてるが、いかんせんそれが誰のものかまでは判別しようがない。

 

「これ…金田さんの…ネクタイだわ」

 

 血まみれの床から、静香が赤い布きれを拾い上げた。

血まみれの上引きちぎられていて原型を留めていないが。特徴的な刺繍には、見覚えがあった。

 

「…まだ生きてるかもしれない」

 

 遺留品はもう一つあった。スネ夫が仲間全員に配布したインカムだ。

マイク部分が折れていて、これももう使えそうにない。−−これで、もし金田が生きていたとしても、連絡の取りようが、ない。

 いや、それ以前に。

 

「探さなきゃ。きっと…きっと大怪我してる。放っておいたら死んじゃうよ、だから…」

 

 分かっている、本当は。だから言いながらのび太の視界は滲んでいった。

 これだけの大量の血。生きているとは到底思えない。

無論遺体がない以上、この血が金田だけのものとは限らないが−−肉も骨も残さず、食われてしまった可能性は圧倒的に高いだろう。

 仮にまだ生きていたとしても。自分達と再会する頃には−−金田はもう、自分達の知っている彼ではあるまい。

 

「また……間に合わなかったなんて…そんなこと…っ…うぅ」

 

 しゃがみこみ、ドンッと床を叩く。悔しさから、ポロポロと涙が溢れた。

最初はとても横柄で傲慢な人だと思った。でもそれは、ほんの少しプライドが高かっただけで−−本当は不器用なだけの、優しい心と茶目っ気のあるおじさんだった。

もっと話せば、もっと長く一緒にいれば−−もっと分かり合うことも、出来ただろうに。

 どうして、守りたいと思えば思うほど、大切なものは手の中から零れ落ちてしまうのだろう。

所詮自分に出来ることは無いというのか。駄目な奴は一生駄目な奴で−−足掻くだけ無駄だとでも?

 

「…諦めないで、のび太さん」

 

 そっと肩に置かれる手。涙ぐむ静香がそこにいる。

 

「…ノイズが酷くて…ハッキリ聞こえたわけじゃないけど。金田さん、あたし達に言ったわ」

 

『私は知った…こんな地獄のような場所でも、人は人を救おうとすると。それが出来ると!』

 

「最初は自暴自棄になってるだけだったあの人だって…変わったの」

 

『それが人間としての誇り…希望!そして化け物の貴様がけして持ちえない武器だ』

 

「変わることが、出来たのよ」

 

『…絶望に、悪意に負けるなよ』

 

「のび太さんや…健治さんが…あの人にそうさせたんだと思う」

 

『君達は…私にとっても希望なのだからね』

 

「あたし達は…そんな金田さんに応えなきゃならないわ。絶望に負けたら…それこそアルルネシアの思う壷じゃない」

「静香ちゃん…」

 本当は静香だって泣き叫びたかった筈だ。諦めてしまいたかった筈だ。でも、それでも諦めないのは、一人じゃないから。

 

「………うん」

 

 自分と、同じだ。

 のび太も静香が今傍にいてくれるから−−まだ折れない選択が、出来る。

 

「…ありがとう。……大丈夫だよ」

 

 本当は大丈夫ではないけれど。自分自身に言い聞かせる為に、そう言おう。

 

「終わらせなきゃいけないんだ。悲しい事も…悪い夢も」

 

 のび太は立ち上がる。部屋をもう一度だけぐるりと見回して、手を合わせた。

もうこの部屋は、安全地帯ではない。この場所に戻って来る事は多分、二度とないだろう。

 

「ありがとうございました…金田さん」

 

 年長者に、敬意と感謝を。

 

「お世話になりました。…失礼します」

 

 自分なりの成長を、勇気を。

 のび太は一礼に、こめた。

「…望みは…ゼロじゃないわよ。金田さんを探しに行きましょう。生きてたらきっとまだ近くにいるわ」

「そうだね…静香ちゃん」

 彼女も理解している筈だ。のび太と一緒に手を合わせた時点で。

それでも、まだ望みはある筈だと言ってくれる。慰めでも、有り難かった。

「のび太さん。静香さん」

「!」

 柔らかい声に振り向く。驚いた。いつの間にかそこに聖奈とヒロトが立っていたから。

「いい雰囲気のとこごめんね。でも君達もうちょっと背中気にしないと、危ないよ?」

「い、いい雰囲気とか別にそんな邪なことは…少なくとも今はそんな考えてなんか…」

「…のび太君相変わらずそっち方面の余裕ゼロだよね…」

 ついわたわたしてしまい、ヒロトに笑われてしまった。こちとら純粋(?)かつ健全にして一般的な小学生なのだ。

中学生が大人かと言えばそんな事もないだろうが、あまり子供をからかうのは止めて欲しい。

 たまに、時々、ものすごく。心臓に、悪い。

 

「…まあ俺も、いくら君達でも血溜まりでデートはないって分かってるから、安心して」

 

 保健室の惨状を見回し、ヒロトは辛そうに眼を伏せた。

「…酷いね、これは。遺体はないようだけど…これじゃ……」

「私のせいです…!」

 聖奈が顔を覆う。

「私…私がリュウジ君の偽物に惑わされて…保健室を離れなかったら、こんな事には……っ!」

「聖奈さん…仕方ないよ、もう」

 何が仕方ない、のか。のび太にも分からなかったが、そう言う他無かった。

もう起きてしまった過去はどうしようもないし、全部が聖奈のせいというわけではない。

 そもそも今回敵はやたら計画的で用意周到だった。聖奈を騙して保健室から誘い出し、彼女と金田がそれぞれ独りきりになったところで叩きに来たのだ。

仮に聖奈が保健室に残ったところで、彼女も一緒にやられてしまっていたかもしれない。

 

「…どうやら、アルルネシアはよほどのび太君が欲しいみたいだね」

 

 ヒロトが考えこみながら言う。

「…あの女の考えそうなことさ。外堀から埋めていく気なんだろう。のび太君の仲間を、こうやって一人ずつ消していくつもりなのかもしれない」

「…下衆の極みですね」

 聖奈が顔を上げる。泣きはらした眼は怒りでギラギラと光っていた。

 

「人の命を…心を!何だと思ってるんでしょう!!

 

 理屈の通じない相手。人の痛みこそ、快楽。人の不幸こそ甘い茶菓子。

のび太はぞっとさせられた。そんな奴がいること、そのものが。

「…ところで、ヒロトさんと聖奈さんはどうしてここに?」

「ああ、ごめん忘れてた。まあ、偶々そこで逢って、とりあえず俺達も保健室を見に行こうってなっただけなんだけど」

「…ええ」

 ヒロトの言葉に、聖奈も頷く。

 

「お互いいろいろあったので…細かい話は、放送室で後ほどさせていただきますけど」

 

 彼女は少し、考えこむような眼をした。

「…セワシ君に逢いました」

「え!?

「助けて貰ったんです。少しですが貴重な情報も貰いましたよ」

 貰った、というより。うっかり相手が漏らした、が正しいかもしれない。

聖奈は、彼女と話していると、つい気を緩ませてしまうところがあるのだ。本人の雰囲気のせいか、あるいは誘導尋問が上手いのかは定かではないが。

 

「…あの人も、本当は迷ってるんですよ。本当は誰も殺したくないんだと思います」

 

 切なげに眼を臥せる聖奈。

 

「何でこう…世の中上手くいかないんでしょうね。本当はただ、幸せになりたいだけの筈なのに」

 

 幸せ。今日一日で、随分考えさせられる事の多い言葉だ。自分が幸せだと気づかないこと。

幸せが有限だなんて考えもせずに、生きていけること。恐らく、それ以上の幸福なんてないのだろう。

 のび太はじ、と己の手を見る。普通の小学生と比べたら、やたら要らない経験が豊富なのは間違いない。

それでも思えば、この手で意図的に、直接誰かの命を奪ったことはなかった。

 例えばコーヤコーヤ星を脅かすアサシンには向けたのはショックガンだったし、鉄人兵団の奴らはロボットなわけで−−それでも精々動きを封じたくらいで(まあ後者の場合、最終的に歴史改竄で兵団を消滅させた為、あれもまた殺戮行動と言えなくもないが。どちらにすよやったのはのび太ではない)。

 今日一日で。人の姿をしたモノに何度銃を向けただろう。しかもショックガンではなく、何かを殺める為でしかない武器を−−本物の拳銃を使ってだ。

 どんどん抵抗がなくなっていく自分を恐ろしく思う。自分が自分でなくなっていきそうで、本当に怖い。

だがその反面、当たり前にぐーたらな自分でいられた頃が−−いかに平和だったかを思い知らされるのだ。

 誰もが幸せになりたいだけの世界に。その幸せを壊す事を至福とする者が現れ、結果全てが崩れてしまった。

 もしもう一度戻れるなら。一瞬一秒、どんな些細な幸せも噛みしめて、生きていく事が出来るのに。

タイムマシンが、ない。時間が戻らないのは本来必然である筈なのに−−可能性に期待してしまっていた分、失望は計り知れない。

 何故、ドラえもんは現れたのだろう。

 自分達を監視して−−一時哀れな甘い夢を見せる為?本当に、そうだったのだろうか。

 あの無人島で。本当は彼は何を言いたかったのだろう。

 

−−駄目だ。うまく頭の中…まとまんないや。

 

 流石に疲れてきている。体以上に、心が。

「それと。綱海は元の世界に強制送還されたから、もう戻ってこないよ」

「え!?ちょ…何それいかなり爆弾な…」

「訳はおいおい話すよ。かなり込み入った話になるからさ」

 ヒロトは、今日の晩御飯はハンバーグだよ、と言うのと同じくらい爽やかにかつ軽く言ってのけた。

のび太は混乱でリアルに目が回りそうである。死んだわけではないならまだマシだが−−。

 

「…一階をぐるっとしてから、みんなで放送室に戻りましょうか」

 

 目元を拭って、聖奈は呟いた。

 

「生きようが死のうが地獄。残念ながら…ヒロトさんの言った通りでしたね」

 

七十六

保健室

〜赤い、赤い涙〜

 

 

 

 

 

目の前の硝子を割れ。