−−西暦1995年8月、学校校舎・3F階段前。

 

 

 

 廃旅館で見つけたカードキーで、ロックは簡単に解除できた。

もしこれでカードが使いものにならなくなっていたり、他にパスワードでも要求されたらどうしようと思っていたが、杞憂に終わって安堵する。

 しかし、ここからが本当の難関だ。のび太は顔を引き締める。最後にスネ夫と綱海が見た時、四階と屋上は化け物だらけだったという。

四階に生存者でもいない限り、そいつらが減る要因はない。まだ大量に彷徨いていると考えるべきだ。

「太郎。…はぐれちゃ駄目だよ」

「う、うん」

 ぎゅっと健治の形見の刀を握りしめる太郎を一瞥して、のび太はシャッターの前に立った。

万が一を考え、シャッターはフルオープンではなく手動で開けるようにしたのだ。少しは状況がマシになる筈である。

 階段の前に降りたシャッター。この向こうに、四階へ続く登り階段がある。開けた途端化け物がなだれ込んで来るかもしれない。慎重に行かなければ。

 

「特に物音はしねぇな……」

 

 シャッターに耳を押し付けて武が言う。

 

「奴らまだシャッターが開いた事に気付いてねぇのかも。行くなら今のうち、だ!」

 

 言いながら彼はシャッターに手をかけ、少しだけ引き上げた。シャッターの下から向こう側を覗き込む。

 

「よし、化け物はいねぇ。行くぞ」

 

 武がシャッターを、自分の頭の高さくらいまで上げた。自分達が小柄で良かったと思う瞬間である。

化け物達が通れるほどの隙間はなくても、自分達なら通れたりするのだから。

 武が先導し、次から聖奈、のび太と太郎、静香、スネ夫。しんがりにヒロトの順でシャッターを潜る。

 そして、誰もが異常に気がついた。

 

「……?」

 

 血も死体も、悲しいほどに見慣れたものだが。さっきから見かけるのは、モンスターの死骸とその一部らしき肉片ばかりだ。

 しん、と。

 空間が異様に静まり返っている。全員が戸惑いながら四階に到達した。廊下も階段と同じ有様である。

まるで階段の随所から血が噴き出したかのようだ。血だまりの中、ハンターやアンデット、ブレインディモスらしき死骸が散らばっている。不規則に、しかし大量に。

 まるで誰かが四階の化け物を片っ端から蹴散らしていったようだ。

 

「誰がやったのかしら……?」

 

 慣れたとはいえ、こうも大量の死骸に囲まれるのは気分が悪い。静香が顔をしかめる。

「セワシさん達?それとも…アンブレラ?」

「少なくとも前者でないのは確かでしょうね」

 死骸の一つの前に屈みこんで、聖奈が言う。

「見て下さい。…どの死骸にも穴が開いて引きちぎれています。そしてこの薬夾…相手はサブマシンガンですよ」

「じゃあ相手はアンブレラ?」

「かもしれません。でもアンブレラの人間が、わざわざ自分達の送り込んだB.O.Wを、軒並み駄目にする理由、あります?」

 それはそうだ。のび太も、近くの死骸を観察する。アンブレラの人間ならば、自分達の安全を確保する以上の討伐行動はとらない筈だ。

まあ、その“安全を脅かす”事態がこの場所で起きた可能性もあるにはあるが−−。

 

「……なんか、ヤなフラグ立ってるよね。どう見ても」

 

 ヒロトが険しい顔で、視線を巡らせた。

「さっさとこの場所を抜けた方がいい。間違いなく厄介なものがいる。…スネ夫君、確か例の場所は、生徒指導室のあたりだったよね?」

「うん。生徒指導室の前の壁。消火器が置いてあるだけで、何もない場所なのに、何故かカメラがそこを映すように固定されてたんだ」

「そこに仕掛け扉か何かがある可能性は高そうだね」

 生徒指導室。思い出して、のび太は唸った。素行の悪い生徒にお説教をする為の部屋(と、少なくとものび太は思っている)だ。

のび太はけして優等生ではないが、断じて不良少年ではない。基本的には、居残りさせられるのも教室だ。

 ただし。残念ながらというか、なんというか。伊達に“マスター・オブ・ゼロ”だの“廊下の支配者”だの嬉しくない称号は賜ってないわけで。

 あまりに遅刻居眠り赤点が多すぎて、生徒指導室にお呼ばれしてしまったことが一度だけある。もはや恐怖体験だ。

あの“お仕置き部屋”のごとくな場所で、一人先生を待っている時のプレッシャーときたら−−説教そのものより辛かったくらいだ。

 

『……私が一番残念に思っているのは。君が遅刻をすることでも、0点を取ることでも、居眠りをすることでもないんだよ』

 

 あの時−−担任教師は、一通りの説教をした後で、そう言った。

 

『それは君が諦めている事だ。どうせ自分には無理なんだ、と。いつもそう思ってるだろう?

君の考えも間違いじゃないさ。勉強の全てが今後の君に役立つわけじゃない。

将来的には得意な奴だけ、好きな奴だけやればいい事がたくさんある』

 

 長い説教に滅入っていて、あまり心には響かなかったが。

勉強をしろといつも口を酸っぱくする彼が少々珍しい事を言うものだから、印象には残っていた。

 

『しかしね。小学生でやるような内容は、大人ならまず出来るのが普通だ。

勿論障害や環境のせいでそれが出来ない人もいるし、出来ない事が恥ずかしいと私は思わないが、恥ずかしいと感じる人は多いのも事実。

そして君がもし大人になって、今のレベルの勉強ができないままだったら…君のそんなところだけを見て、嗤う人がきっといるだろう。私はそれが我慢できない』

 

 どうして、分からなかったのだろう。恩師はあの時、とても大切な事を言ってくれていたのに。

 

『君はたくさん良いところを持っている。他人に優しくて、誰とでも友達になろうとする。

肝心な時は誰より勇気を持てる子だ。…そんな君が、本質を見られないまま誰かに笑われるような事になったら…私は凄く悲しい』

 

 ありがとう。その一言さえ、自分は口に出来なかった。今だから分かる。恩師はのび太の事を本気で考えていてくれたのだと。

 

『だから…諦めないでくれ。誰にでも苦手はあるさ。

でも今出来ない事が、ほんの少しだけ出来るようになるくらいなら…可能性はゼロじゃないだろう?

忘れないでくれよ。君は君を、諦める必要などないのと』

 

 あまり思い出に浸る余裕はない。だからこれは、ほんの少しだけの回想。

 自分自身が幸せだったことに気付かず、素通りしていた愛に−−短い懺悔を捧げる為だけの。

 彼は言ってくれていたのだ。完璧じゃなくていい。ほんの少しでいい。どんなに苦手な事だってほんの少しなら出来るようになるかもしれない。

人の百倍の努力をして、そのほんの少しを叶えたら−−それを評価してくれる人が、ごく身近にいるということを。

 

−−先生。僕はもう、諦めないからね。

 

 どうせ自分なんて、と悲観する。それを逃げだと糾弾するのは簡単だった筈だ。しかし先生はそれを“諦める必要はないよ”と優しく諫めてくれたのだ。

 今更だけど。気付かないまま終わらなくて良かったと今、心から思う。

 

「この辺りだった筈だよ」

 

 スネ夫の声に、のび太は思考を現実へとシフトさせる。

 生きた化け物にもゾンビにも会う事なく、一行は生徒指導室の前に辿り着いていた。

スネ夫が指し示す場所には、確かに消火器が設置されているだけで、一見何かがありそうには見えない。

 だが。

「…!よく見たら壁に境目があるわ。これ、隠し扉じゃないかしら」

「ほんとだ!」

 静香の言う通り、よくよく見れば壁に四角い切れ込みがある。大人が一人通れるくらいの大きさだ。

「…力ずくてこじ開けてみるか」

「わお、それ最高」

「じゃ、ジャイアン!ヒロトさん!あんま無茶やめてマジで…!!

 腕まくりする武に、切れ込みにキックをかまそうと一歩下がるヒロト。のび太は慌てて二人を止めた。

 何でこう、パワータイプの方々は発想が乱暴なんだろうか。大体ヒロトなんてキャラブレが激しすぎやしないか?クールでミステリアスが公式だったような?あれ?

「とまあ冗談はそれくらいにして」

「冗談?ほんとに冗談だったの?」

「………まあ半分以上本気だったけどそれは置いといて」

「冗談じゃないじゃん!だいぶ本気じゃん!そして置いちゃうの放り投げちゃうの!?

「のび太君…実はかなりツッコミに向いてるんじゃない?なんなら俺とコンビ組む?」

「命がいくらあっても足りなそうなので遠慮シマスー」

「何故に棒読み」

「ヒロトさんのび太さんいい加減にしましょうね。話が脱線しまくってますよ?」

 ついにプチッと来たらしい聖奈が、指をポキポキさせ始めたので(後ろに鬼が!鬼が見える!!)のび太は沈黙する。ああ、自分は悪くないのに、何で余計な恐怖体験をせねばならないのだろう。

「この消火器に何かありそうですよね。…太郎君、悪戯しちゃ駄目ですって」

「…消火器で遊んでみたかったんだもん。いつもは先生に怒られちゃうし…あれ?」

 消火器を弄り回していた太郎が、首を傾げる。

 

「…消火器って…外れなきゃ変だよね?動かないよ…?」

 

 太郎がいくら引っ張っても、消火器が外れない。中身が重いのか、どこかで引っかかってるのか。

 腕力と言えば武だ。太郎に代わり武がトライするが、やはり動かない。となると、力の問題ではないという事になる。

 

「あ」

 

 のび太は消火器ケースの側面にある四角い出っ張りを見つけ、声をあげる。いかにも怪しい。

 

「これじゃないかな。…えいっ!」

 

 出っ張りを手で押し込みながら、もう片方の手で消火器を持ち上げた。

ガコン、という手応えと共に、消火器が外れる。するとどこからかウィーン、という機械の起動音がした。

 

「なるほど、よく考えたもんだね。…太郎みたいに消火器を悪戯したい奴は多いけど、今の手順を踏まなきゃこの消火器は外れない。

しかも職員室や生徒指導室の前は先生に見つかりやすいから、生徒もあんま来ないんだ」

 

 その通り、と言わんばかりに。スネ夫の台詞が終わる頃には、目の前の景色が変わっていた。ががが、と壁が上に開いていく。みるみるそこに長方形の穴が開いた。

 のび太は頭を突っ込み、下を覗きこむ。長い梯子だ。だいぶ下の方まで続いているらしい。壁を探るとスイッチがあった。ぱっとコンクリートの降り口が明るく照らされる。

 

「これ、一人ずつしか降りれそうにないね。誰から…」

 

 行く?と言おうとした時。がたん、とどこからか音がした。次にはかつ、かつ、とブーツが床を叩く足音が。

 

「…え?」

 

 生徒指導室の曇り硝子に、人影が映った。それもかなり大きいような。

 胃の底に鉛を詰め込んだような。重苦しい不安と、緊張。何かが、室内にいる。それもかなりヤバい類いだと−−のび太の本能が、そう告げている。

 

「…そういう事ですか」

 

 聖奈が笑った。呆れたような、困ったような、畏れを押し殺そうとして失敗したような−−引きつった、笑み。

 

「真打ち登場みたいですよ、皆さん」

 

 ドアノブが、がちゃりと音を立てる。

 死が大口を開け、自分達を飲み込まんとしていた。

 

七十八

追悼

〜見えた筈の愛、見えなかった

 

 

 

 

 

嘘を並べ、不安を掻き消したいだけ。