ドア一枚隔てた先にいる、悪魔。
ドアノブががちゃりと音を立てる。のび太は硬直していた。すぐ動かなければ命に関わる。それが分かっていながら、未知の存在への恐怖が足を竦ませる。
もう今まで何度も化け物と戦った筈だというのに。この流れる冷たい汗は−−この焦燥は、威圧感は−−何だ。
「…聖奈さん」
ヒロトが静かな声で聖奈を呼ぶ。
「太郎君を連れて、今すぐ先に下に降りて。スネ夫君もすぐ後に続いて。下が安全な保証はないけど、化け物は多分この通路は狭くて通れないから」
「……分かりました」
反論を飲み込んだ聖奈は大人なのだろう。のび太なら多分、何で自分が先に、と口にしていた。化け物は怖い。でも仲間を置いて先に逃げたくはない。
しかし、太郎のことを考えればそうはいかない。一刻も早く彼を避難させなければ危ない。その役目は誰かが引き受けるしかないのだ。
聖奈は素早く太郎を抱え、地下への入り口に飛び込んだ。
小柄な太郎と、女性の聖奈ならば一緒に梯子を降りることもできる。太郎が待って!と声を上げたが今はなりふり構っていられない。
「…みんな、すぐ来てくれよ。暗くて狭いところは苦手なんだ」
彼らしくもないジョークを吐き、スネ夫が後に続いた。彼の姿が穴に消えた直後だ。生徒指導室のドアが勢いよく開かれた。
「離れてっ!」
ヒロトが叫ぶ。反射的にのび太はヒロトと共に右へ、武と静香が左手に飛んでいた。
パララララララ。
軽く、木の実でも落としているような音が、連続して響いた。壁に、床に、ミシン目のような穴が大量に開く。
ぬっ、と。化け物の巨体が姿を現した。
「あれは…!」
一見すると。それは人間の男のように見えた。がっしりとした体つきに、スキンヘッドの男性だ。その身には裾の長い黒コートを纏い、手にはサブマシンガンを構えている。
「追跡者ネメシス…!まさか、こいつまで…!!」
のび太は見覚えがあった。資料にあったB.O.Wの一種だ。人間に偽装することができ、かつ銃器を扱い簡単な指令を理解することが可能となったB.O.W。
反面、ハンターなどにあった身体的な爪や牙といった武器はないが、サブマシンガンを扱える存在には必要ないのだろう。
通常の人間より大柄な体躯は、獣系のB.O.W達と比較すると鈍重だが、その代わりパワーに優れる。
素手でも相手を容易く殴り殺せるとかなんとか。また基本の動きは速くないし持続力もないが、一瞬で相手との距離を詰める突進攻撃もある。脚力に任せて強引に相手を弾き飛ばすのだ。
いずれにせよ今までのB.O.Wとは違った意味で厄介な相手だ。
「よく見えなかったけどブローニング・ハイパワー…かな、あの銃は。戦時中に猛威を振るったサブマシンガンだ。今は廃れてるって話だけど」
「…弱点とかある?弾幕で延々と撃ち続けられたら、前に出れないどころかいずれ追い詰められちゃうよ…!」
ヒロトは一瞬考えこむ仕草をした。そして言う。
「…うろ覚えだけど。重さが無装填段階で8キロくらいあって頑丈な反面…まあブローニングに限った事でもないけど、そんなに小回りが効かない。
操るのがネメシスだから尚更だ。あと、あの銃は装弾数20発で、サブマシンガンにしては少ないから…空になった瞬間に懐に飛び込めば勝機はある。でも…」
非常に危険な賭と、ヒロトも分かっているんだろう。その表情は険しい。
「後は、固定銃身だから。砲芯が加熱したり磨耗しても代えの部品とかはない。
…ベストは連射が途切れる一瞬に飛び込んで、マシンガンそのものを破壊してしまう事だけど。ちょっと難易度がシャレにならないよねぇ」
「普通に、全弾撃ち尽くすのを待つ…とか?」
「その前に強行突破してくるんじゃない?他のB.O.Wほど馬鹿じゃないんだから」
パララ、と火薬のはぜる音が近くなる。のび太のこめかみを冷たい汗が流れた。
こんなもの、直線に並ばれた時点でアウトではないか。あっという間にズタボロの蜂の巣になれるだろう。
いつまでもこいつだけに手間取っていられない。のび太は地下の入口の方を見やる。先に行った聖奈達が心配だ。下にも化け物がうようよ、なんて事も考えられる。
それにここからでは、通路の反対側に隠れたであろう静香と武の様子も分からない。
悲鳴らしきものは聞こえてこないが、いつ彼らが餌食にされるか分かったもんじゃない。
そもそも静香はともかく武の武器は金属バットに金槌、ロケットランチャーだ。前者は近接武器だし、ロケランは威力が高い代わりに発射が遅い。狙っている間にやられてしまうだろう。
いずれにせよこのままでら埒があかない。早く戦況を打開しなければ−−しかし、どうやって?
「…奴は“追跡者”の名前の通り、定めた一人のターゲットを延々と追い続ける習性がある。
習性っていうかまあ、そう刷り込まれてるというか。だから実は、対複数戦はそんなに得意じゃない」
ヒロトはふう、と一つ息を吐いて、言った。
「仕方ないね。……俺が囮になって奴をこの場から引き離す。その間に君達は地下へ行って」
「ちょ…ヒロトさん!?無茶だよそんなの!!」
のび太は声を上げた。ヒロトが何を考えているか知らないが、到底受け入れられる筈がない。これではむざむざ死にに行くようなものではないか。
「…何でさ……何でみんないなくなるんだよ!一人で頑張ろうとするんだよ!?全員で生きて帰るって約束したのに嘘ばっかりだ…!酷いと思わないの!?」
分かっている。皆が金田も健治も綱海も安雄も。一人一人で戦う羽目になってしまったのは偶々で、皆が皆何かを守ろうとした結果、死や退場といった結果になってしまった事は。
望んで死を選んだ者は、一人もいない。皆が生きたかった筈だ。約束を、嘘になどしたくなかった筈だ。酷い?そんな事、本人達が一番分かっている筈だろう。
ヒロトを引き留める為なら、どんな暴言だって吐けてしまえる。代替案があるでもない。このままなら全員死ぬかもしれない。それでももう、心が限界だと叫んでいた。
仲間を失うのはもう、嫌だ。
「…そうだね。酷いね」
ヒロトは悲しそうに言った。
「…ただね。みんなが一人でも頑張れたのは、仲間がいたからだと思うよ。俺も、君達がいるから…ちょっとくらい痛い思いしてもいいかなって気になってるんだ」
「ヒロトさ…」
「囮になって唯一生き残れそうなの、俺くらいだもの。俺なら奴の弾幕の隙が突ける。奴と正々堂々戦える。それに……俺も綱海と同じ。仮にこの世界で死んで、それは本当の死じゃない」
確かにそうかもしれないが。そこで躊躇ってしまうのが、のび太の甘さなのだろうか。
「…約束する」
微笑むヒロト。
「また逢いに行くよ。全部が終わったら綱海と一緒に。…友達だもんね」
友達。自分の信念は−−ヒロトに届いていた。ありきたりで、簡単で、珍しくもなんともない単語。しかしその言葉で、のび太の腹は−−決まった。
「…今度はもう約束、破らないでよね」
それから、とのび太は続ける。
「……できれば後で“この世界で”、もう一回約束して」
これが、今生の別れとならないように。
「うん。約束する!」
言いながらヒロトは−−弾幕が束の間途切れた瞬間、通路に飛び出した。その後の光景は、隠れていたのび太には分からない。
ただ機関銃の音が何かを追尾するように乱れたものに変わり、銃撃に混じって階段を駆け降りる足音が響いた。
やがて物音の全てが遠ざかっていく。情報は音だけだが、恐らくヒロトは被弾することなく目的を達成させたのだろう。今は三階でネメシスと戦っている筈だ。
「のび太さん!」
「のび太!」
静香と武が飛び出してくる。一人足りない事に気付き、静香が眉をひそめた。
「ヒロトさんは…?まさか…」
「ネメシスを三階へ誘導してくれた。僕達は今のうちに地下へ行けって」
「そんな…!囮だなんて…!!」
ヒロトが“死なない”のは静香も知っていること。それでも本気で心配するのが彼女で−−いや。静香が優しいから、それだけではない。
友達だからだ。
−−ヒロトさん。貴方は驚いてた。僕が貴方やみんなを友達と呼んだ時に。
「大丈夫だよ、静香ちゃん」
−−でも、驚くような事じゃないでしょう、本当は。
「だって約束してくれたもの」
−−だって、貴方を友達だと思ってるのは、僕だけじゃないんだから。
「だから絶対、大丈夫だよ」
忘れてないで。
愛こそ世界の一なる元素。
絆は彼が思っているよりずっと簡単に結べる。たった一人でいい、それを信じる者がいれば、絆は広がる。
−−それが僕の、真実だ。
どんなに世界が変わっても、自分の世界だけは変わる事がないように。
「…なんかお前が言うと、本当に大丈夫って気がしてくるな。さすが劇場版補正のかかったのび太だ」
武が笑いながら言う。誉めてくれるのは有り難いが、相変わらず一言多い。
そもそもいい加減これ以上メタな発言を繰り返すのは、小説としていかがなものなのか。
「…とりあえず下に降りよう。化け物が戻って来ないとも限らないしさ」
むくれながらも、のび太は話を進める。
「忘れ物はない?みんな」
「そろそろお風呂に入りたいわ、のび太さん」
「それは忘れ物っていうより未練じゃ」
「あたしに死亡フラグ立てたいののび太さん?確かに死亡フラグのヒロインなんて呼ばれてるけど別にそんな…」
「静香ちゃんまでそうゆう事言わないでよ!!」
「ああああっ!何で気付かなかったんだ俺!大事なもん家に忘れてきたぞ!!」
「な、何を忘れたのジャイアン…」
「愛用のマイク!スネ夫からパクッた高級な…」
「あああ思い出さなくて良かったのにぃぃぃぃっ!」
いつ歌い出すか分からない武も恐怖だが。さりげなく静香がジト目で睨んで来るのが怖い。
あんたが余計なこと言うから、と顔に大書きされている。
いつもの軽い冗談の応酬だったのに。というか静香だってノッてきていたじゃないかと言いたい。
のび太はダブルの驚異(最終人間破壊兵器とドス黒い殺気)に晒されながら、逃げるように梯子を降りた。
下は貯水スペースになっているようだ。薬臭い匂いがする。
幸い面倒な怪物はいなかったようで、血も死骸も落ちていなかった。奥の壁の前に立っていた聖奈、太郎、スネ夫が振り向く。
「あれ、ヒロトさんがいないぞ?」
「ネメシスを引きつけてくれてるんだ。あの人ならきっと大丈夫。…それは?」
本当はもっと詳しく聞きたかっただろう。しかしのび太が有無を言わさず話を進めると、スネ夫は渋々奥を指差した。
「見ろよ」
壁に見えたものが違っていた事に気づき、のび太は目を見開く。
「……エレベーター」
どうやら此処が、アンブレラのアジトへ繋がる入り口と見て間違いないらしい。のび太はキッと開閉ドアを睨みつける。
そこには忌々しい、赤いパラボラを象ったマークが、貼り付けられていた。
第七十九話
追跡者
〜押し売りされた恐怖〜
世界が動く、音がする。