自分達に有利な点があるとすれば。こちらがまず無傷であるということ。そして二人であること。これは案外馬鹿にも出来ないアドバンテージだ。

静香と太郎がバラバラに動けば、知能のそう高くないブラックタイガーはどちらを攻撃対象にするかでまず迷うだろう。

それに奴は出木杉の手榴弾の一撃を腹に受けている。その部位は焼け爛れ、内臓が露出しているわけで――つまりかなりのダメージだと推定される。

 他にも優位な点はある。一つは視力。いくつも複眼を持つブラックタイガーは視野こそ広いが、色の識別能力は無いに等しく、また視力も人間より遙かに悪い。

 そこに加えてもう一つの利点。それは静香も太郎も子供だということ。

特に、太郎の小柄な体格は、視力の弱い敵に対し大きな武器になるだろう。しかも彼は足がかなり速い。

ブラックタイガーが彼の姿を見失うよう仕向けるのは、さほど難しいことではない。

 

――あたしもそんなに体が大きいわけじゃないけど。でも太郎君と比べたらまだ、あたしの方が目立つのよね。

 

 静香は走る。わざと大蜘蛛の目につく場所で。ブラックタイガーは静香を追いかけ、時折糸を吐く。

 まずはこれを避けられなければどうにもならない。出木杉とのび太への攻撃を見ていたことで、おおよそだが奴の射程は掴んでいた。

糸は放射線状に飛ぶように見えるが、実は左右へはさほど強くない。問題は上下。ブラックタイガーはあえて獲物の斜め上へ糸を吐くのだ。

結果避けられたと思った糸を頭から被る羽目になるし、背の高い獲物もあっさり雁字搦めにされてしまうのである。

 ジャンプしたり伏せてみたところで、大蜘蛛の糸はかわせない。ひたすら左右へ逃げ続けるしかないのである。

 

――でも糸を吐いた直後、こいつは動きが止まる!

 

 そこへサブマシンガンで応戦する。残念ながら中距離からの射撃では威力が不十分なようだが、相手を怯ませ後退させるくらいの効果はある。

 

「ギャアアッ!」

 

 ブラックタイガーが一歩後ろへ下がる。もう少し。あと一歩下がってくれれば――!

 

 グショッ。

 

 粘着質な音がした。ブラックタイガーが、自らが吐いた大量の糸の上に、足を乗せてしまった音だった。

 

「蜘蛛が自分の巣に絡まらないのは何故か?粘着質な糸の上を何故自由に動くことができるのか?……答えは一つ。蜘蛛が吐く糸は二種類あるからだ」

 

 拘束されている出木杉が、ニヤリと笑って言う。

 

「蜘蛛の巣には、実は粘着力のない糸が混じっている。蜘蛛が巣を渡る為の、主専用の糸だ。

蜘蛛はその粘着力のない糸を足場にすることで、ベタベタの蜘蛛の巣を自由に動く事が出来るんだ。……知ってたのかい、静香君」

「教育テレビの番組も結構役に立つわよね。蜘蛛は大嫌いなの。だから余計忘れられなかったわ」

 

 静香はほくそ笑む。

 つまりだ。蜘蛛が巣を渡れるのはあくまで糸の方に粘着力がないからであって――蜘蛛自身の脚に、仕組みがあるわけではないのである。

B.O.Wといえ原型は蜘蛛。ならば仕組みの大元は変わらない筈だと静香は思ったのだ。

 ブラックタイガーが攻撃してきた糸は、獲物を捕獲する為の“粘着力のある糸”ばかりだ。つまり、ブラックタイガー自身も、誘いこまれれば自らの糸で脚をとられてしまうのである。

 その隙を、太郎は逃さない。

 

「太郎君、今よ!」

「うん!」

 

 蜘蛛の視界から外れ、隙を窺ってきた太郎が、後ろから飛びかかる。

蜘蛛の腹の上に見事に飛び乗った太郎は、振り落とされないようにしがみつきながら、刀を蜘蛛の腹の下に潜り込ませて−−。

 

「たあああっ!」

 

 一気に、引いた。

 

「ギニャアアアァァァァ!!

 

 大蜘蛛が絶叫し、のたうつ。太郎は素早くその身から飛び降りて距離をとっていた。

激痛にパニクっている大蜘蛛は転がり、ますます糸を体に絡めて自滅していく。

 

「人間サマ、ナメてんじゃないわよ」

 

 静香は暴れるブラックタイガーの顔面に銃口を押し付ける。

 

 

 

「食らっときなさい…ゼロ距離でっ!」

 

 

 

 引き金を、引いた。いつものような軽快な音ではなかった。

弾が発射されるたび、B.O.Wの眼玉が、肉が、脳が千切れ飛ぶ汚らしく湿った音が断続的に響く。

 

――あたしは負けない…あんたにも、魔女にも…自分自身にも!

 

 頭を穴だらけにし、体液とも脳漿ともつかぬ液体をだらだらと零すブラックタイガー。

その体が、ぐらりと傾ぐ。さすがにこの距離から何十発も脳に撃ち込まれては、いくらB.O.Wとて無事で済む筈がない。

 そう、済む筈がないから――そこに油断があった。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 断末魔の絶叫。凄まじい音波に、静香は慌てて耳を塞いだ。塞ぐのでいっぱいいっぱいだった。

 凄まじい振動が、地下空洞を軋ませる。ビシビシとどこかに罅が入る嫌な音がした。はっと静香が気づいた時には、もう遅く。

 

 みしり。

 

「あ……っ」

 

 ブラックタイガーを中心に。岩でできた地面が放物線状に罅割れた。

蜘蛛のすぐ側にいた静香は勿論、太郎や出木杉やのび太まで巻き込み、地面が崩れ落ちていく。

 

「まさかっ」

「うそ……」

「うわあああっ!」

「きゃああああああっ!」

 

 四人は悲鳴を上げ、地下道を落下していったのだった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

−−西暦1995年8月、某所。

 

 

 

 例えば。

 あの日自分に、もう少し力があったとして。もう少しの、勇気があったとして。

 そしたら何かは変わったのだろうか。

 少なくとも最悪の結末だけは、変えられたのだろうか。

 

「何を考えてるのかな、君は」

 

 セワシは閉じていた瞼を持ち上げる。そこに見慣れた、丸い頭に大きな眼。その顔を見るたび安堵して、同時にどうしようもない罪悪感にかられる。

ドラえもん。彼は自分の最高にして最期の友人。そして自分の、業の証。

 

「少し頭を休めた方がいいよ。君は頑張りすぎだ」

「違和感があるな、その言葉」

「事実だもの。僕は毒舌家だけど、そういう嘘はつかないさ。君にはむしろ残酷かもしれないけどね」

 

 違和感。セワシが何故そう言ったか、ドラえもんも分かってはいるのだろう。

残酷――ああ、確かに残酷だ。これ以上何を思い出してみたところで、全ては同じ結末にしか繋がらないのだから。

 

「出木杉とはまた連絡がつかないのか?」

 

 ちらり、とセワシはモニターを見る。ドラえもんが握っているそれは、砂嵐のまま動く気配がない。

 

「残念ながらね。さっき少し話せたのが奇跡みたいなもんだよ。電波偽装が成功すれば、衛生無線が使えるんだけど」

「勉強不足だったな。お互いに」

「まさかこんな事になるなんて思わなかったもんね。それに君は元々勉強なんて大嫌いじゃないか」

「やかましい。嫌いなりには努力したぞ」

「はいはい」

 

 勉強なんか嫌いだ。まあ同年代で、好きな奴の方が少ないんだろうが。

 それでも、何故親や教師が口を酸っぱくして勉強しろ勉強しろ言うのか、今なら分からないでもない。

正しいか正しくないかは別として、それが彼らなりの“愛”であることは確かなのだ。

 

「出木杉は、地下道にいるんだよな」

 

 ふと、ある事に気付きセワシは眉を寄せた。

 

「……実際の“シナリオ”だと。出木杉はあそこで、アンブレラのスパイだと誤解されるんじゃなかったか?

その上でブラックタイガーに深手を負わされて…踏んだり蹴ったりな展開だった筈だ」

 

 のび太は出木杉を裏切り者だと誤解し、銃を向ける。

そこにブラックタイガーが空気を読んだがごとく現れて、出木杉に大ダメージを与えてしまう。それが何故だかいつも変わらぬ展開だった。

 オリジナルならばともかく。今この盤上にいる出木杉は、セワシというゲームマスターが動かす駒に等しい。

その非常に面倒な誤解を避けるべく、出木杉に指示を出してはきたのだが――どういうわけか、その事件だけは避けられないのだ。

 セワシからすれば頭が痛いことこの上ない。出木杉がアンブレラのスパイなどでないことは、自分が一番よく分かっている。

にも関わらず結果として誤解を招く状況が生まれてしまう。まるでそれが、予め決められた物語だと言わんばかりに。

 

「出木杉君と連絡がつかない事にはどうしようもないけど……もしまた同じ事が起きているなら早く回収してあげないと」

 

 ドラえもんが苦い顔をする。またボロボロになった出木杉の姿を見なければならない――それを想像するだけで心苦しいのだろう。

 正直、ここで出木杉を退場させる羽目になるのは痛かった。

ただでさえ少ない駒で盤面を動かしているのだ。この先、自分とドラえもんだけでどこまで戦っていけるだろう?

 

「……研究所内に、どこでもドアで渡れたら話は早かったんだがな」

 

 セワシは溜め息を吐く。どこでもドアーー実はこの道具も、本来ならば“存在しない”。だからこれはあくまで道具ではなく、ゲームマスターの特権に近いものだ。

盤面に大きな影響を与えない範囲でのみ使える、空間転移の手段。だから影響を与える可能性のある場所には行けない。

 例えばそれは、アルルネシアが決界で封印した場所であったりする。廃旅館の大広間然り、研究所然り。

 

「でも裏を返せば。僕らが直接そこに行くと、アルルネシアに都合の悪い理由があるって事だよね」

「なるほど。逆に判断材料になるわけか」

「物は考えようさ。ひたすら腐ってたって始まらないよ。……普段駄目駄目に見えるモノが、意外なところで力を発揮したりするんだからね」

 

 ドラえもんが言っているのは無論、のび太についてだ。

本人が思っている以上に、ドラえもんはのび太を高く評価しているのだろう。いや、評価というよりも。

 

「お前はよほどのび太を殺したくないらしいな」

 

 どうしようもないくらい、情が移ってしまっている。

 これはドラえもんがというより、セワシの失敗だった。

のび太をより近くで観察する為、信頼を得る為――そういう名目で彼をのび太に近付けすぎた。長く傍に、置きすぎてしまった。

 無論それだけが理由でないことは分かっている。

ドラえもんの“オリジナル”を考えれば、彼がのび太に惹かれてしまうのは必然。だがそれでも尚、後悔せざるをえない。

 

「……すまなかった」

 

 ドラえもんがのび太に友情を感じれば感じるほど。それは何より残酷な結末に繋がる。

 

「君は僕に謝ってばかりだね。仕方ないよこればっかりは。誰のせいでもないんだから」

 

 ドラえもんは苦笑して言った。

 

「何度も言うようだけど…心配しないで。僕は絶対に君を裏切ったりしないから」

「分かってる」

「ただね」

 

 彼は少し。顔を曇らせる。

 

「あの“鍵”さえ見つかれば……のび太君が死ななくてもいいんじゃないかって、思うくらいは……赦してね」

 

 消え入りそうな声が、胸に突き刺さる。セワシは唇を噛み締め、俯いた。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。

 自分達はただ。幸せになりたかっただけなのに。

 

 

 

八十七

 連携

さを超えるという事〜

 

 

 

 

 

必ず辿りつくから。