今だ!と出木杉の声を聴くや否や。のび太は力一杯地面を蹴っていた。

ティンダロスの最も真正面と呼べる位置にいたのは自分と武である。まさしく紙一重のタイミングだった。

 

「ゴォォ!」

 

 魔犬の吼える声と、ティンダロスが壁に激突した衝撃音が鼓膜を揺さぶる。思った通り。馬鹿正直に特攻してきた奴は、自分達が避けても止まるに止まれなかったようである。

入り口脇に積まれていたダンボールやら棚やらが倒れ、どさどさとB.O.Wの上に降り注いだ。

 思い切り壁に激突したとはいえ、大したダメージはないだろう。しかし、逃げるには充分な隙だ。

 

「のび太さん!早く!」

「わ……し、静香ちゃん!?

 

 静香に腕を掴まれ、半ば引っ張られるようにして研究所に走り込む。仲間達も後に続いたようだ。後ろからどたどたと走る足音がする。

 ティンダロスのやってきた方向は危険と判断したのか。静香は廊下を真っ直ぐには進まず、すぐ左に折れた。その次には右。また左。

どうやら出木杉が言っていた“蜂の巣”を冠する研究所の話、強ち嘘ではないかもしれない。通路はまるで迷路のように入り組んでいる。

 

「し、静香ちゃってば!待ってって!」

 

 何が問題って。その間ずっと静香に手を握られたままだったということである。

いつもなら、静香に手を握られただけで天にも登る心地だが、今は状況が状況だ。

 嫌な予感がする。バリバリに、する。のび太は引きずられながらも、慌てて振り返って――予感の的中を、悟った。

 

「た、大変!みんながいないよ!」

 

 あんな滅茶苦茶な逃げ方をするからだ。いつの間にか周りには自分と静香しかいなくなっている。

ストップをかける意味もかねて、のび太は叫ぶ。すると。

 

「当然よ」

 

 ぴたり、と。静香は足を止めて言った。

 

「だって、わざとみんなを撒いたんだもの」

 

 一瞬、何を言われたかわからなかった。は?と間抜けな声を出してしまうのび太。すると静香が振り向く。のび太の手を、握り直しながら。

 

「のび太さんと二人きりになりたかったの。……それが理由じゃ、駄目かしら」

 

 それは――のび太が初めて見る、静香の顔だった。瞳を潤ませ、上目づかいに見やる。

妖艶なその様に、思わずドキリとした。のび太がもう少し大人であったなら、その表情の意味を理解できたかもしれない。

 

――二人きりって…って…え!?

 

 どういう事だ。何をいきなり、どうなってるんだ。ドギマギしながらも頭を回す。

そんなのび太の様子がおかしかったのか、静香がくすくすと笑った。

 

「もう、鈍いんだから。でもそんなところも……素敵」

 

 ふわり、と。甘い香りが鼻孔を擽る。

 

「好きな人と、二人だけになりたかったの。それっておかしなこと?」

「す、好きな人……って」

「決まってるじゃない。今あたしの、目の前にいるわ」

 

 さすがにそこまで言われれば、鈍いのび太でも理解が追いつく。

しかし、いや何故だかよく分からないが何だかとっても――よろしくない展開な気がするのは、気のせいだろうか。

 

「……ずっと怖かったの。こんな酷いことが起きるなんて、誰が想像してた?

怖くて怖くて…でもみんなの前じゃ、我慢するしかないじゃない?」

 

 静香の声は、か弱い女の子のそれだった。

男なら誰でも庇護欲をそそられそうな、無条件で抱きしめてあげたくなってしまいそうな――そんな、音色。

 

「あたしが本当のあたしになれるのは、のび太さんの前だけ。だから……みんなとワザと離れちゃった。あたし、悪い子ね」

「そ、そんなこと……。僕だって静香ちゃんと二人っきりになれたら、嬉しいし」

 

 それは紛れもないのび太の本音だ。状況が状況でなければ、鼻の下を伸ばしていたかもしれない。でも。

 

「でもやっぱり、みんなの所に戻らなきゃ。勝手に離れたのはマズいよ。みんな心配してるし、もしみんながティンダロスに追われでもしてたら……」

「みんなの事なんて、どうだっていいじゃない!」

「え?」

 

 耳を疑った。固まるのび太に、真正面から抱きつく静香。

 

「あたしがいるわ、のび太さん。あたし一人じゃ足りないの?あたしは……のび太さん一人いれば充分なのに」

 

 静香に抱きしめられたのは二度目だ。一度目は背中からだったから、顔を見ることは叶わなかった。

今はすぐそこに静香の顔がある。泣きそうな、彼女の顔がある。大人のドラマならこのままキスシーンに繋がってもおかしくないような。

 だけど。あの時と今は――何かが違う。シチュエーションとしては前回より今回の方が美味しい筈だ。

にも関わらず、違和感は一秒毎に強くなる。抱きしめられる腕は温かい筈だ。なのに、なのに。

 

 

 

「……君は、誰だ」

 

 

 

 ああ、そういうことか。

 

 

 

「本物の静香ちゃんは、何処にいるんだ」

 

 

 

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。様子を一変させたのび太を、目を見開いて見つめる静香。

その体を、のび太はゆっくりと引き剥がす。

 

「何言ってるの、のび太さん……?」

「本当の静香ちゃんは、言わない。みんなの事なんかどうでもいい、なんて」

 

 見た目は何もかも同じなのに。何もかもが違っている。なんだ。簡単なことではないか。

 

「静香ちゃんは。自分の為だけにみんなを危険に晒したりしない。

だってずっと……みんなの足を引っ張りたくないって悩んでたのに」

 

 そうだ。静香は自分一人皆の役に立ててないのではと思い悩んでいた。その結果が廃旅館でのあの行動だ。

健治に叱られ、ヒロトに諭され、健治や金田やはる夫の死とヒロトや綱海の離脱を経験し――その果てに決意を固めて、太郎と一緒にブラックタイガーに立ち向かった。

それが自分の知る、本物の源静香だ。

 自分は最初からおかしいと思っていたではないか。あの時だ。あの時しか有り得ない。

ブラックタイガーを倒した後、彼女は偽物と入れ替わったのだ。

 

「静香ちゃんは……はる夫を殺した僕を抱きしめてくれたけど。あの時のは、僕の為だった。今みたいに、自分の為じゃなかったよ」

 

 違いは、歴然。のび太はキッと静香――否、偽物を睨みつける。

 

「それに、ブラックタイガー戦のあとから、君の様子はおかしかった。いつもなら君が怒ってくれそうな場面で、代わりに太郎や他の誰かが喋ってた」

 

 半分は勘。半分は確信。自惚れかもしれないが本物ならば――静香はのび太の為に、声を張り上げてくれた筈だ。

セワシがすべての不幸をのび太に押し付けているだけだと、あの時そう怒ったのは太郎。静香は何故か沈黙していた。

 それだけじゃない。のび太と武とスネ夫。三人でドラえもんについて会話した時、同じ記憶と話題を共有する筈の静香は何故か加わってこなかった。

興味がないと言わんばかりに、扉を見ていただけだ。

 挙げればキリがない。本物との違い、なんて。

 

「もう一度言うよ。本物は何処にいる」

 

 彼女の瞳が揺れる。姿だけなら完璧に静香だった。そうでなくとも、女の子を糾弾するなんて性に合わない。

気持ちがぐらつきそうになるのを、理性を再動員して押さえ込む。

 心はもう、答えを出している。

 

「酷い……酷いわ、のび太さん。確かにあたしだって……戦いのあとで気が動転して、様子がおかしかったもしれないけど……。偽物だなんて酷い」

 

 顔を覆い、静香と同じ顔した少女はしくしくと泣き出す。痛々しいとのび太は思う。

その儚げな姿だけではない。そうまでして――他人を演じなければならない、その様が辛い。

だからのび太は言った。

 

「君は本当にそれでいいの?」

 

 静香に成りすまして自分達に近付く。そのメリットがあるのは、アンブレラないしアルルネシアの一派だけだ。

のび太を騙して、チーム間の仲違いを招く。あるいは、自分を仲間のところへ連れていく。

アンブレラもアルルネシアも自分を捕まえたがっているわけだから、そこで筋は通るのだ。

 いずれにせよ。目の前の彼女がまた幻でないのなら――当然、静香に似せた誰かが演じているということになる。

恐らく配下の人間の少女。連中に騙されているのか洗脳されているのか、あるいは自分の意志なのか、そのあたりは定かでないけれど。

 

「君は静香ちゃんじゃない。静香ちゃんにはなれないのに……静香の代わりになるだなんて。それでいいの?本当の君は何処にいるんだよ」

 

 偽物は偽物だ。残念ながら本物と同じ存在にはなりようがない。

ならば偽物になる彼女の意志は。彼女の個人は。それで本当に満足なのか。

 

「同じ人間になんてなれっこない。ましてや、僕が生まれて初めて好きになった女の子になんて、なれる筈がないよ」

 

 ごめん。そう呟いたのは、誰の為であったのか。

 偽静香は何も言わない。ただ顔を覆って嗚咽を漏らしている。

ショックで何も言えないのか、それすら演技なのか。疑うしかない自分の立場が、心底嫌になる。

 声をかけようとして、のび太は口を噤んだ。名前を呼ぼうにも、自分は目の前の彼女の名さえ知らない。

自分を騙そうとした事には怒りを感じるが、だからといって泣いている女の子を必要以上に責め立てるほど鬼にはなれない。

甘い、と。言われるまでもなく分かってはいるのに。

 声をかける代わりに、震える肩に手を置いた。そして気付く。嗚咽の中に、奇妙なノイズが混じることに。

ノイズ、という表現が正しいかどうか分からないが――それは違和感と呼んで差し支えないもの。

 

「…え?」

 

 泣き声が、歪む。しゃくりあげる音が、あらぬ方向へ、弾む。のび太は漸く気付き、反射的に彼女から離れた。

 

「うぅ……ぅ、ふふ……」

 

 最初は確かに泣いていた筈だ。それが。

 

「くく、ふふふ……くくく、ひひひひひひひ」

 

 いつの間にか。

 キチガイじみた嗤い声に変わっている。

背筋を蛆虫が這うような、神経を弦にして弓で弾かれるような――言葉にならぬ不快感が、のび太の体を突き抜けた。

 さっきまで此処は普通の廊下で。偽物が演じる、B級ラブストーリーの舞台だった。

それが今、一瞬で異質な場所に、変わってしまった。

 似ている。アルルネシアが現れた時の、吐き気がするような威圧感に。あの空気に。

 

「くひひひひ……きゃはははははははァッ!凄い凄い凄いわっ!さすがは宿命の魔術師……見事な推察と、チカラ!!

アルルネシア様の加護を受けてるこのあたしが、揺らされそうになるなんてね!」

 

 顔を上げる偽静香。その顔にはもう、“静香”の面影は微塵もない。人の表情は、顔の造形以上にイメージに差をつけるのだとのび太は始めて知った。

 左唇を持ち上げ、両目をアンバランスに弧を描いた形に開き――それはそれは醜悪で、歪んだ、狂人の笑みだった。人間がこんな顔をできるのかと疑いたくなるほどに。

 

「お前……やっぱりアルルネシアの配下だったんだな。目的はなんだ。答えろ!」

 

 銃を握った自分は間違っていないだろう。冷や汗をかきながらも、のび太は少女を睨みつけた。

 

「決まってるじゃない」

 

 少女は全身を揺らして嗤う。嗤う。嗤う。

 

「貴方を手に入れる事よ」

 

 

九十四

 贋作

リジナルとレプリカと〜

 

 

 

 

 

解いて真実、この手の中。