――西暦1995年8月、研究所・小部屋。

 

 

 

 頭がグラグラする。何か夢を見た気がするが、よく思い出せない。夢と現実の境界が曖昧になる瞬間。静香はこの感覚がどうしても好きになれなかった。

 夢と現実は。どう頑張っても溶け合う事はない。嘘は嘘、本物は本物。夢だった事を思い知る時、言い知れぬ脱力感に見舞われるのが嫌なのだ。

安堵。もしくは絶望。後者は言うまでもないが、前者にも少なからず暗い感情は付きまとうのだ。

 誰だって思うこと。悪夢が現実になってしまったらどうしよう、なんて。

 

「……最悪だわ」

 

 あえて声に出して呟く。思っていたよりしっかりとした声が出た。体中が痛いが、精々あちこち打ち身になっている程度だろう。

大した怪我はしていない。だから静香が最悪だと思った理由は、三つある。

 一つは目覚めた時の感触が、いつになく不快だったこと。

 もう一つは、両手を縄で縛られていること。

 最後の一つは、目の前に見覚えのある女の顔があったこと。どの不快感が最も比重が高いかなど、語るまでもないだろう。

 

「一番最初に見るのが貴女の顔だなんて。どうせなら王子様のキスで目覚めてみたかったわ」

「あらあら。可愛いこと言うのね。メルヘンな夢を見るのもいい事よ。小学生くらいの女の子なら尚更ね」

 

 女――アルルネシアは、くすくすと嗤いながら言った。その様がますます静香の神経を逆撫でする。

 人が立ちっぱなしで縛られている時に、目の前で呑気にティーセットを広げられてみれば尚更だ。

 

――ブラックタイガーを倒して…その後。地面が崩れて……どうなったんだろう?

 

 無機質な壁と床。革張りソファーとガラステーブル、資料がびっしり入った棚。それだけ見ると、まるで病院の待合室か何かのようだ。

 だが。壁に刻印されたアンブレラのマークが、無言で否定を突きつけてくる。

恐らくは、此処が自分達の探していた地下研究所だ。あの地下坑道から、さほど遠くない場所の筈である。

 

「……貴女には言いたいことが山のようにあるけど。まず最初に訊くわ。あたしを攫った理由は、何?拷問でもする気なの?」

 

 拷問。自分で言ってもぞっとする単語だ。昔テレビで見た拷問器具や話を思い出した。

体中に穴を開けるアイアンメイデン。指の関節に一本ずつ釘を刺していく拷問や、爪を剥がす道具。

中には生きたまま腸を引きずり出し、歯車で巻き上げるなんて拷問もあったとか――排泄器官を縫い付けて体の中から腐らせてしまうなんてのもあったとか。

 無論そんな番組は趣味からほど遠いが。偶々つけたチャンネルで、ほんの二三分見てしまったそれは、静香のトラウマになるのに十分だった。

人間の悪意を。狂気を。さながら最も残酷な形にして見せられているようで。

 

「残念ながら。趣味じゃないの」

 

 はぁ、とアルルネシアは大仰に溜め息を吐いた。

 

「女の子に興味なんかないわ。ソッチの趣味はないもの。あたしが好きになるのは可愛い男の子と麗しい美青年とイカしたオジサマだけよ。

そして好きでもない相手を拷問したって面白くもなんともないじゃない」

「さすが、サディストの考えることは違うわね。苛めていたぶるのが貴女の愛だというの?」

「愛……うふふ、そうねぇ。愛かもしれないわねぇ」

「……悪趣味」

 

 ニヤニヤ嗤うアルルネシアに、他にどんな言葉が言えたのか。拷問や尋問は本来、相手に秘密を吐かせる為にやることだ。

それそのものが目的ではない、普通なら。しかしこの女には、それが全く逆であるらしい。愛しいから悲鳴を楽しむ?正気の沙汰ではない。

 だがその狂気の根源は、普通の人間も持ちえるものなのかもしれなかった。

好きな子ほど苛めたい。苛めることで自分を見て欲しい。意識を集めたい。その感情があらぬ方向に進化し、ねじ曲がれば――アルルネシアのようにもなるのかもしれなかった。

 

――苛め殺される展開ではないみたいね。でも、油断はできない。この人は健治さんや金田さんを……あんなに惨たらしく殺したんだから。

 

 正確には金田の生死は確認されていないが。あの状況では、生きている望みは薄い――静香にだって、分かっている。

 この女はいわば、憎い憎い敵。それがまだイマイチピンと来ないのは、自分がまだ“魔女”という非現実極まりない存在を心事切れていないからに他ならない。

 廃旅館で会った時。静香はアルルネシアを、実は実体のない存在なのかもしれないと疑っていた。

幻覚。あるいは、幽霊に近い存在。それらの考え方もあまり現実的とは言えなかったが、それでも“異世界を渡ってきた魔女”よりは信憑性があるというものだ。

 けれど。今アルルネシアは静香の目の前で、紅茶と茶菓子を楽しんでいる。

それらを窘める肉体が、そこに実在しているという事だ。ほのかな茶葉の匂いが鼻孔を刺激する。

出来ればちゃんと触って確認したいが、拘束されている状態ではどうにもならない。

 

「まあ、そうねぇ。半分は気紛れ。半分にだけ意味があるって感じかしらね」

 

 うーん、と言葉を探すように腕組みしながら魔女は言う。

 

「物語のヒロインがどんな子か確かめてみたかったのと……まあ人質ってところね。

貴女、のび太ちゃんに随分大事にされてるじゃない。嫉妬しちゃうわ。今頃血眼になって捜しているか、あるいは」

 

 ニィ、と。アルルネシアの眼が三日月型に弧を描く。気持ち悪い、キチガイの笑み。

 

「気付いてもいないかもしれないわね。貴女がいなくなったことなんて」

「どういう事」

 

 静香がいなくなったのに気づかない?一体どういう意味なのか。背中に冷たい汗が流れる。

 

「貴女の偽物を送り込んだのよぉ。良くできたアンドロイド。顔も声も演技も完璧なのよ」

「な……っ!」

「うふふふ、その顔はちょっと良いわよ。女に興味はないけど、人間の青ざめた顔や絶望した顔は大好きなの、あたし」

 

 アンドロイド。まさかそんな技術まで持っていたなんて。静香の顔から血の気が引いたのを見て、ますますアルルネシアは笑みを濃くする。

 

「さて、どう返すつもりかしらぁ?あたしの愛しいのび太さんはそんなもんに惑わされないわ!とでも言ってみるぅ?」

 

 吐き気がするような甘ったるい声に、神経を掻き回される。魔女のペースに乗せられてはならない。静香は必死で感情にブレーキをかけた。

 そして真面目に考える。のび太は本当に、偽物を見破ってくれるのか。

あるいは気付かないままなのだろうかを。盲信とは違う、経験と出来る限りの客観的視点から、結果を弾き出そうとする。

 

「……そうね」

 

 静香は答えを出す。

 

「最初はきっと簡単に騙されてしまうわ。だってのび太さんって、本当にお人好しなの。

人を疑って、相手を傷つけるのが嫌いなの。しかも……あたし相手だろうとなかろうと、女の子には特に甘いのよね」

 

 勘は悪くないのだ。にも関わらず違和感を素通りしてしまいがちなのである。

仲間を信じたいから。それは弱さであり、甘さであり、時には逃避ととられても仕方ない行為だろう。

 でも。そんなのび太だから――みんな彼が大好きなのだ。静香も、含めて。

 

「だけど、真実は見誤らない。絶対に」

 

 アルルネシアは根本から勘違いしている。のび太が静香をどう思っていようと関係ないのだ。

偽物?本物?そんな次元の話じゃない。何度誑かされようが騙されようが、一番大事なところで間違えないのがのび太だ。

 ましてや。仲間や友達が関わることなら尚更である。

 

「偽物を送り込んであたしが慌てふためく様を見たかったなら……お生憎様ね。

あたしはのび太さんを信じるし、ただ黙って助けを待つつもりもない」

 

 人質?上等だ。

 追い詰められれば鼠も猫を噛む。アルルネシアとこうして直接話す機会を得られただけ儲けものではないか。

 自力脱出は無理かもしれない。少し前の自分なら多分、ただ泣いて助けを求めていただろう。

でも、それでは何も変わらないと今は知っている。自分がそうやって助けを求めれば求めるほど、のび太の足を引っ張る。アルルネシアの思う壺だ。

 だったら自分は絶対諦めてやらない。挫けてやらない。屈してやらない。

一分一秒まで生き残る方法を考え続けてやる。逃げられずとも、目の前の魔女から何か収穫を得てやる。

 最後に笑うのはいつだって、絶対の意志を持ち続けた奴だ。

 

「泣いてなんかやらない。ひたすら考え続けてやる。……絶対よ。あたしは人間だけど、魔法は使える。絶対の意志こそ、あたしの魔法!」

 

 するとアルルネシアはほんの少し意外そうな顔をする。

 

「へえ、驚いたわ。まさか魔女でもない人間の小娘が、魔法を理解しているなんて。

しかも貴女のそれは、かの絶対の魔女ラムダデルタ卿と同じものよ」

「……絶対の魔女?他にも魔女はいるの?」

「あら、そのへんは知らなかったのね。ヒロトちゃん達から聴いてないの?ヒロトちゃん達の後見人も魔女なのよ。終焉の魔女キーシクスっていうんだけど」

 

 ある意味あたしが一番好きで一番嫌いな魔女ね。アルルネシアは紅茶をお代わりしながら言う。

 

「魔女の定義は百も二百もそれ以上もあるわ。でもまあ、あたし達の共通見解としては……“魔法を理解し扱う素質を持ち”“かつ称号を持った別の魔女が認めた存在”を魔女や魔術師と呼ぶ場合が殆どね」

 

 そういえば、と静香は思う。のび太を“宿命の魔術師”と一番最初に呼んだのはアルルネシアだ。

魔法を理解する、というのはイマイチよく分からないが、のび太をアルルネシアがそう呼んだ時点で、“のび太は魔術師と認められた”ことになったのかもしれない。

 あとは健治もそう。アルルネシアに“奇跡の魔術師”と称されていた。

結果として彼は死ぬことになってしまったが、一人でフローズヴィニルトのオリジナル三体を相手にし、勝利するという奇跡を見せた。

ひょっとしたら魔女に認められることで、その人物はそれに相応しい力を得る――あるいは開花させると、そういう事なのかもしれない。

 静香に言わせれば、魔女が認めようが認めまいがのび太はのび太、健治は健治。彼らが成した奇跡や功績はあくまで彼ら自身の力だ。魔女など関係ない。と、思う。

 

「貴女の言う通り、実は人間にだって魔法は使えるの。

でも、魔法を真に理解し、鍛え、その素質を開花させた存在には……どう頑張っても勝てないのよねぇ」

「やってみなくちゃ分からないわ。貴女のその慢心、命取りになるわよ。直に思い知るでしょうけど」

「それは楽しみね、静香ちゃん。ワンサイドゲームにはそろそろ飽きてたところなの。それくらい抵抗してくれなくちゃ、あたしも面白くないわ」

 

 アルルネシアの言葉に、静香が思い出したのはヒロトの話だ。この世界は、箱の中の箱――誰かが遊ぶゲームのような世界かもしれない、と。

 目の前の魔女は世界の外を知る存在。ならばその事実に、気付いていてもおかしくはない。

 

「貴女は何処まで知ってるの……?この世界の真実に」

 

 静香が言うと、魔女はニヤリと嗤ってみせた。

 

 

九十五

 人質

なき応酬〜

 

 

 

 

 

大胆不敵な影が、華麗に踊る。