−−西暦1995年8月、研究所・地下3F小実験室。
ドラえもんは、机に両手をついたセワシの背中をただじっと見つめていた。ぐしゃり、と。彼の手の中で紙が握り潰される音が。
見る者にとってはただの紙切れ。しかし自分達にとっては――長きに渡り捜し求めた、“最期の鍵”であった。
「やっと、見つけた」
セワシの細い肩が震えている。
「やっと……やっとやっと!これで全てが……救われる!」
のび太達が、自らの手で入り口を探し当てること。彼らの後に自分達が研究所に踏み入ること。
それが、上位世界で定められたルールだった。此処にいるセワシもドラえもんも、一つの駒に過ぎない。
ゲームマスターたる“セワシ”が適用したルールは、自分達にも超えられない――たとえ彼自身が望んで制定したルールでなくとも、だ。
その代わりに与えられているのが“管理者権限”としてのどこでもドアや、バイオゲラスを操った一つきりのマイクロチップだったりするのだが。
自分達は半ば“世界の外から来たにも等しい”存在。行動の制限は、厳しい。だから今までずっと、鍵を探すどころか研究所にさえ踏み入ることが出来なかったのだ。
今まで見てきたシナリオで。のび太達が研究所に到達したことは、一度たりとも無かったのだから。
――既に未来は、未知の領域へと進んでいる。
ドラえもんはじっと自分の手を見つめる。丸くて真っ白な、物を握ることさえ困難な――ロボットの手。
それでものび太は、そんなドラえもんの手が好きだと言ってくれたのを思い出した。白いキャンパスみたいだと。
ネズミにかじられた耳。ネジがはずれたせいでポンコツになってしまった機能。フられて馬鹿みたいに泣き続けたせいで、メッキが剥げてしまった体も全部。
耳なんかなくたって、体が青くたっていいじゃないかと。そう笑ってくれたのを――思い出してしまった。
『だってドラえもんは……世界にたった一人しかいないじゃないか』
どうして。こんな時に。
『誰も君と同じ姿はしてないんだよ?それって素敵じゃない?』
どうして。全部もう、遅いのに。
『誰にも似てないから。僕は何処にいたってドラえもんを見つけられるんだよ』
全て。
決まってしまう瞬間はもう、すぐそこなのに。
「ドラえもん?」
「……!」
いつの間に。振り向いたセワシがこちらを訝しむような眼で見ている。
どうやら少しばかり、意識を遠くへやってしまっていたようだ。慌てて首を振り、ドラえもんは追憶を振り払う。
「ご、ごめん。何でもないよ。鍵、見つかったんだよね。間違いない?」
「ああ」
少し皺になってしまった紙を、セワシはドラえもんに広げて見せる。それは研究員の手記の一部だった。
セワシは自分にとって必要な部分だけを破ったのである。ノートを丸々持ち歩くのはかさばるからだろう。
「百年だ。百年かかった。だけど……俺達のしてきたことは、無駄じゃなかった」
泣きそうな顔のセワシ。でも彼は涙を見せない。もう何十年、彼の涙を見ていないのだろう。
泣き虫だった彼が、泣けなくなった理由など今更語るまでもない。だからドラえもんは、彼に逆らえない。
そうだ。自分がセワシに逆らえない理由は、単に彼が創物主だからではない。そもそもセワシは自分にも出木杉にもそんなプレグラムは入れてない。
彼は本来、何一つ強制はしていない。自分の事が嫌いになったら、いつでも此処からいなくなっていいから――何度そう、言われたかしれない。
それでも自分がセワシに従うのは、全部分かっているから。そして。
彼が好きだからだ。親友というより、家族に等しいレベルで。
――この感情はもしかしたら、プログラムされた……オリジナルのものなのかもしれないけど。僕自身の感情では、ないのかもしれないけど。
自分は機械だ。ロボットだ。人間にはなれない。人の意志を、本当の意味で超える事など出来ない。でも。
――僕の心は、僕のものだ。
それでも譲れない。
たった一つ。このたった一つだけは、絶対に。
「最後の確認だ。その鍵が手に入ったってことは、この世界でやるべき事はあと一つだけ。のび太君を抹殺すること。そうだね?」
「ああ」
「それが終わったら出木杉君を回収してログアウト。世界の経過を見守る。
そしてもし…のび太君がいなくなった結果、静香ちゃん達やみんなの未来に望む変化が現れたら……」
その時。セワシの手で未来は選択されるのだ。ゲーム盤を巻き戻して、のび太が生まれないように細工する。あるいは、のび太が生まれてすぐ死ぬように仕向ける。
その後“鍵”を使い、魔女に干渉する。この“干渉”が上手くいくかは賭の範疇を出ないが、のび太の不幸輪廻因子が確定しそれが消えたならば勝率は上がる筈だ。
その全てが完了し、歴史の修正が確認出来たら。セワシはもう押さずに済むだろう。数え切れないほど押した、リテイクという名のスイッチを。
「……約束。もう一個追加していいかな」
ドラえもんは俯いて、消え入りそうな声で言った。セワシに約束して貰ったことは一つ目は、のび太との決着は自分の手でということ。今願う、そのもう一つは。
「ちゃんとお別れ……させてね。のび太君とも……君とも」
「……ああ」
残された時間は少ない。もはや足踏みをしている猶予は無かった。
この長い長い悪夢を、終わらせる。しかしなんという皮肉だろう。
悪夢を終わらせる為には、愛する親友を二人――いや、出木杉を含めると三人になる――も。
世界さえにも、別れを告げなければばならないなんて。
***
――西暦1995年8月、研究所・1F。
静香は必死で、アルルネシアの言葉の意味を考えていた。混乱で頭が茹で上がりそうだ。
確かに、ドラえもんは既に“自分達は未来から来たわけでもなければタイムマシンも使えない”という事を話していた。
だが正直なところ、それが偽りである可能性は否定出来なかったのである。現時点で彼はのび太の味方ではない。ならばいくらでも偽の情報を与える可能性はある。
しかし。今。【赤き真実という名の絶対的で疑う余地のない真実】が今、静香の手元にはある。
それを告げたのは憎き災禍の魔女アルルネシアだが、【赤き真実ではアルルネシアでさえ嘘がつけない】のだ。自分はこれらの絶対情報を元に、思考を組み立てていかなくてはならない。
静香に与えられたる赤は、三つ。
【この世界のゲームマスターはセワシちゃんよ】
【貴女の知るセワシちゃんは、のび太ちゃんの子孫ではないわ。でものび太ちゃんが消えればセワシちゃんも消える】
【ゲーム盤を作ったのはセワシちゃんだけど、シナリオは一度たりとてセワシちゃんの思い通りになった事はないのよね】
――ゲーム盤。ゲームマスター。そう言ったということはやはり、この世界は現実ではないんだわ。
ゲームマスターはセワシで、ゲーム盤を作ったのもセワシ。これは確定された。
しかし静香が“これはセワシが遊ぶゲームだ”という内容をアルルネシアに復唱させようとしたところ、それは流されている。
ゲームをプレイするのがセワシでないという意味か。“遊ぶ”という表現が相応しからぬものであったのか。
恐らくは後者だと推察される。ただし【アルルネシアは意味のない嘘も吐くタイプ】だそうなので、言える赤をわざと言わなかった可能性もあるにはあるのだが。
これがセワシが“真剣に”プレイするゲームなら。その目的は何なのか。のび太を殺す、のはあくまで手段の一つであるように思う。
何故セワシがのび太を殺したがるのかは分からないが、それもまた彼が望む未来を手に入れる為の鍵なのではないだろうか。
なんせ【シナリオがセワシの望むように進んだことが一度もない】わけだから。
そしてセワシの望んだシナリオの先には、のび太は無論セワシ本人も存在していない。なんせ【のび太が消えればセワシは消える】のに、セワシはのび太を殺そうとして――いや。
念の為だ。これも確認しておこう。自分の感覚では確かにセワシはのび太本人を憎み、殺そうとしているように思えるが、それが演技であることも有り得なくはない。
「復唱要求よアルルネシア。“セワシさんはのび太さんを憎み、殺そうとしている”。“ゲームの目的はのび太さんを殺すことで達成される”」
アルルネシアはまだ紅茶を飲んでいる。
いつの間にかテーブルの上の茶菓子はチョコレートに変わっているし、なんと危機感のない魔女なのか。
「…んー…半分にだけ応じるわ。【セワシちゃんはのび太ちゃんを本気で殺そうとしてるわよ。無論、自分もあのドラちゃんや出木杉ちゃんも消えるの分かってるのにね】。
…後半の復唱は拒否よ。さあ、推理タイムね」
そうか。ドラえもんはセワシが作ったと言っていた。セワシが消えればドラえもんも消えてしまうのか。
しかし、出木杉も消えるとはどういう事なのか?
「…何で出木杉さんまで消えてしまうの?だって出木杉さんは…」
「あらぁ気付いてなかったかしら?【あの出木杉ちゃんは、セワシちゃんの作ったアンドロイドよ】」
「出木杉さんが!?」
「ついでにもう一つ赤をサービスしてあげるわ。【出木杉ちゃんもあのドラちゃんも、オリジナルの存在じゃないのよ。
オリジナルの出木杉ちゃんは人間だったし、オリジナルのドラちゃんを作ったのもセワシちゃんじゃなかったのよね】」
「!?じゃ、じゃあ……二人は偽物なの!?」
「どうかしらねぇ。だって【この世界に出木杉英才と名のつく存在は、貴女の知る出木杉ちゃん一人だけだし。
ドラちゃんも然りよ。この世界の貴女達はオリジナルの存在を一度たりとも見たことがないわ】。なら、あの子達は偽物って呼べないんじゃなくて?」
ぽんぽんとやけに気前よく赤をサービスしてくれる。出木杉がアンドロイド。
彼らがオリジナルではないのに、自分達が見たのは全部、二世代目の彼らであると?
――それに。のび太さんを殺すと何故セワシさんまで消えてしまうの?子孫じゃないのに、何故あんなそっくりな顔をしてるの?
待てよ。
この世界が、本当は1995年ではないとヒロトは言っていて。何故か未来の新聞記事があるとスネ夫が言っていて。
放送室に残された懺悔のような日記。
“彼と彼女と君。”“君を作る”という単語。“ドラえもん”に助けを求める一文。
オリジナルではないのに、オリジナルでない彼らしか存在しないゲーム盤。ゲームマスターのセワシの思い通りならないシナリオ。
セワシを憎むのび太と二人の相互関係。そこから導き出せる答えは――。
「まさか、そんな……」
真っ青になる。あった。全てに矛盾しない、唯一の答えが。
「あ、アルルネシア。復唱、して。“セワシさんは……」
静香の言葉に、アルルネシアは高々と嗤い声を上げた。
「正解よ静香チャン!復唱したげるわ。【セワシちゃんは……】」
今。確定された。
第九十七話
不安
〜捜し者と、探されしモノ〜
運命を切り裂く流れ星。