此処でまさかドラえもんが現れるだなんて。しかも今の行動――まるで自分を助けたかのようではないか。

困惑するのび太を一瞥し、ドラえもんは口を開く。

 

「勘違いしないでね。僕は君を助けたわけじゃない。君と戦うのに、彼女が邪魔だったからどいて貰っただけだよ」

「ドラえもん……」

「でもまぁ、僕も空気が読めないわけじゃない。本物の静香ちゃんを助けるまでは手を貸してあげる」

 

 無表情のドラえもん、その向こうで、空気砲の一撃を食らった偽静香が身じろぐ。

 

「ふ、うふふ。効いたわよぉ。殺さなかったあたりが甘いけどね」

 

 よろよろと立ち上がるアンドロイド。

 最大出力では無かったせいか、偽静香の基礎防御力が高かったのか。

腹のあたりの服が破れ、塗装が剥がれていたが、深刻というほどのダメージは受けていないらしい。

 

「僕もロボットだ。同族殺しはあんまり気分がいいものじゃない。……次は容赦しないけどね」

「貴方が人間じゃないのが残念だわ。性格はなかなかあたし好みなのに」

 

 会話の温度差をリアルに感じる。氷のようなドラえもんの声に対し、偽静香の声はまるで熱した砂糖菓子のよう。会話として成立するのが不思議なほど、両者の意志は相容れていない。

 ドラえもんが、怒っている。こんな風に怒る彼を、今まで見たことがあっただろうか。

元より感情の起伏が激しいだけに、怒るとすぐ声を張り上げてリアクション激しく暴走するのがドラえもんだ。

 そんな彼が、こんな。絶対零度さえ超えるほどの――凍りつくような怒りを見せるだなんて。

のび太に対してではない。もっと言えば目の前の偽静香に対してでもないだろう。ドラえもんは偽静香を通してアルルネシアを見ている。

そのアルルネシアに――憎悪と呼ぶのさえ生ぬるいほどの怒りを、露わにしているのだ。

 

「話は聴いてたよ。愉しいから?面白いから?そんな理由で僕達の世界を滅茶苦茶にしたんだって?」

 

 思わず。のび太は一歩、後ろに退いていた。背中ごしでも分かるドラえもんの激情。

一瞬だが完全に気圧されたのだ。魔術師として力を得た、この自分が。

 

「幼稚園児かよ、えぇ?……ああ、そう言ったら幼稚園児に失礼か。クソだな。吐き気がする。

アルルネシア……一回殺しただけじゃこの怒り収まらないのが見え見えなんだけど、どうしてくれる?」

 

 ドラえもんが、形だけとはいえのび太の保護者で教育者的立場にあった彼が。

こんな汚い言葉で、本気で誰かを罵るのを聴いたのも−−初めてだった。

 

「……そうね。最低、なのかもしれないわね」

 

 そして、偽静香がそれに反論せず、素直に肯定したのもまた意外だった。

 

「でも貴方も分かってる筈よ。アルルネシア様は人の悪意から生まれた魔女。実は人類の悪意を代弁する存在。

悪意を持たない人間はいないし、ロボットの貴方も例外じゃないわよね。

……誰だって心の中では思ってる。自分だけが幸せになりたい。誰かより優れていたい。

自分より劣る人間を鼻で笑いたい、誰かの幸せを踏みにじってやりたい……そんな願望をね」

 

 間違いでは、ない。のび太は唇を噛み締める。自分だってある。誰かの喜びを破壊したい、誰かを貶めたい――自分が一番幸せでありたい。そんな風に、思ったことが。

 だってそうだろう。スネ夫に玩具や豪華な海外旅行を自慢されて、それより良いものをドラえもんに強請り、仕返しとばかりにスネ夫に自慢したがるのは。

根本的にあるのは優越感を得たい“欲望”と、スネ夫を不快にさせたいという“悪意”に他ならないのだから。

 きっと。アルルネシアに自分の意志で賛同する者もいるだろう。彼女は人々が押し殺し、我慢しているものを代弁する。

さらけ出す。理性の蓋を解き放った先にあるものを見せ――魅せる。

惹かれてしまう者も少なからずいる筈だ。ひょっとしたらアンブレラの総帥もその魅力に負けてしまったのかもしれない。

 悪意を惜しげもなく解き放つのは、快感であるに違いないから。その果てにどれだけの後悔と絶望が待っていたとしても。

 

「君の言う事は正しいさ。人は、悪意と共存してきた。でも悪意を縛ることが出来たから……今日この日まで世界が此処にある。

そして一瞬の悦楽より、ずっと素敵で長続きするものがあるのを知ってる」

 

 アルルネシアを、その悪意を。本当の意味で否定する事は誰にも出来ない。

魔術師となったのび太にさえ赤で宣言は出来ないのだ、“アルルネシアは存在しない”とも、“人間に悪意は無い”とも。

 だがもし人間達に悪意“しか”無かったら。世界はとっくに、終わっていた筈だ。人を生かし、世界を作るのは悪意ではない。束の間の快楽で生きてはいけない。

アダムとイブ、神話の時代にはもう、人々はそれに気付いていた。

 

「自分と誰かが大切だって。その為に頑張ろうって思う気持ち。それが今日まで世界を動かしてきたんだ」

 

 堅く結んだ永久の絆は、悪意には断ち切れない。

 心から愛される喜びで世界は生まれ、今日も廻る。魔術師なら皆知っている。

愛こそが一なる元素。恋愛。友愛。家族愛。敬愛。愛こそが最強最大の魔法であることを。

 

「だから僕は赤で言える。【確かに人々から悪意が消える事はない。でも、人々から愛が消える事もないんだ。

だからアルルネシアに僕達の世界を滅ぼす事は、絶対に不可能なんだよ!】

 

 偽静香は一瞬はっとしたような顔になり――しかしすぐ、行動に移っていた。

冷静に目の前に赤いシールドを張り、のび太の赤き一撃を防ぐ。

 

「そうね。でも、【今、あたしが貴方に倒される事はないわ。だって…あたしも知ったもの。愛と悪意の両方をね】

「……!」

「だけど残念ながら【あたしを作ったのがアルルネシア様である以上、どうやってもあたしが創物主の意志を超える事は無いわ。

ドラちゃん達と同じようにね】そしてこれ以上の攻防は、無意味」

「なっ……しまった!」

 

 赤い鎖が、ドラえもんの右足に巻きついていた。それには、ドラえもんの行動を制限する力はない。

しかし、心に足枷をつけるには充分だった。

 

【作られた存在であるドラえもんには、創物主の意志は超えられない】

 

 のび太と戦うフリをして彼女はドラえもんを狙っていたのだ。言葉という名の呪い。そして赤き鎖。赤で宣言されてしまった以上その真実には誰も逆らえない。

 ドラえもんはもう、セワシに絶対逆らえなくなってしまったのだ。

 

「うふふ、二人のデートにあたしはお邪魔みたいだから消えてあげる。でもあたし、諦めないわよ」

 

 ニヤリと嗤って、偽静香は踵を返した。

 

「ご機嫌よう。また逢いましょう、あたしの愛しいのび太さん」

 

 負傷しているとは思えないスピードで、偽静香は駆けていく。追いかけようとしたのは一瞬だ。

すぐに悟った。いくら魔術師の力を得ても、のび太の身体能力が変わるわけではないのだ。

自分の本来の足の速さは並の小学生に劣る。火事場の馬鹿力でだいぶ補正がかかるにせよ、今はそんな場面でもない。

 力を得た結果、ほぼ確実に無理なことをすぐ理解出来るようになってしまった。これは不幸な事かもしれない。

 

「魔術師、か」

 

 偽静香が消えた方角を見て、ドラえもんが呟く。

 

「今のが魔女と魔術師の戦いってわけか。知識としては知ってたけど…目の前で見たのは初めてだよ」

「驚かないんだね。てっきり“君なんかが魔術師になれるなんて”とか言われると思った」

「オリジナルならそう言ったかもね」

 

 オリジナル?のび太がそう聞き返すより先に、ドラえもんが振り返った。

 

「僕は知ってたよ。君に魔術師の素質があることは。今まで散々馬鹿にしてきといてアレだけどさ。

僕は君を過小評価しない。此処まで生き残ってきたわけだしね」

 

 表情が完全に消えている。さっきまでの怒りや憎悪が、嘘であったかのように。しかしその顔は、何も感じてないがゆえではない。

 心を無理して殺そうとしている。そんな風に、のび太には思えた。

 

「……君の意志を一応確認してあげる。君はまだ僕を“友達”だと信じてるつもりかい?」

 

 友達。その単語をやけに強調するドラえもん。どんな気持ちでその言葉を言ったのだろう。今、何を想っているのだろう。

 今ののび太でさえ、他人の想いを赤で宣言することは出来ない。でも、それでいいんだと思う。

おかしな話だがのび太は今、“出来ない”ことに感謝した。生まれて初めて、力がない事を――喜んだ。何故なら。

 

「何度でも言うよ、ドラえもん」

 

 人の気持ちが見えないから。分からないから。自分達は、分かり合おうとする。他人を理解しようと精一杯足掻き、傷つき傷つけあいながらぶつかろうとする。

 それがヒトだ。そしてドラえもんは人間ではないけれど――人間と同じ、心を持った“ヒト”である筈だ。少なくとも、のび太はそう信じている。

 信じていられる“ヒト”である自分を、誇りに思う。

 

「君は僕の、最高の親友だ。……だから一回喧嘩したくらいで、僕は君を諦めたりしない。

“仲直り”できるまで、何回だってぶつかるよ」

 

 だから僕からも訊くよ、と。のび太は続けた。

 

「君には本当に、僕と真正面からぶつかり合う覚悟があるのかい?」

 

 ドラえもんが此処に一人で来た理由。二人きりでの勝負に邪魔だからと理由をつけて、のび太を助けた訳。決まっている。ドラえもんもまた、決着を望んでいるからだ。

 

「君が僕と戦いたい理由は、僕が君と戦いたい理由とは違うと思う。同じである必要もない」

 

 のび太はドラえもんの真意を確かめ、ほどけかけた絆をもう一度結び直す為に戦いたいと願っている。

 そして恐らくドラえもんは。

のび太を殺さなければならない事にまだ迷っているからこそ、そんな自分の気持ちにケジメをつけ、今や過去であるのび太との過去に決着をつける為に。今、此処にいるのだと思う。

 

「だけど。畏れていたら意味ないよね。手加減して殴りあったってさ、本当の気持ちはきっと伝わらないよ。

そりゃ……痛いのは嫌だけど。今でも本当は怖いけどさ」

 

 おかしな話だが。ジャイアンにたくさん殴られた分、自分は彼をよく知れた気がするのである。

手段としては乱暴だが、時には殴り合いの喧嘩が必要な時もあるのだ。近しい間からなら尚更。そして今、自分とドラえもんもその時ではないだろうか。

 

「全力で僕と戦って。僕を裏切るって言うなら……正面からぶつかってきて。

僕も本気で行くから。……まだ絆は断ち切れないって、信じてるから!」

 

 その瞬間。ドラえもんの顔が泣きだしそうに歪んだ。すぐにその色は消えたけれど。

 のび太は気づかなかった。自分の今の台詞はそのまま、かつてセワシが作った歌の歌詞と同じであったことを。かつてセワシもまた、同じ言葉を口にしていた事を。

 

「……分かってるよ、のび太君。安心して。逃げるつもりなら、僕は此処にいないから」

 

 ドラえもんは何かを隠すように、のび太に背を向けた。

 

「まずは静香ちゃん、助けようか。話はそれからだよ」

 

 

九十九

 対決

と君〜

 

 

 

 

 

誰だ、誰だ、頭の中 呼びかける声は。